かかりつけ医的に顧客をケアする金融機関の責任
金融機関として、顧客の最善の利益を勘案するとき、顧客の幸福や繁栄について、常に親身な関心をもち、顧客の動静に細心の注意を払うことになるはずです。
顧客の最善の利益を勘案する義務
昨年の法律改正により、現在では、金融サービスを提供する全ての事業者に対して、顧客の最善の利益を勘案する義務が課されています。ここで決定的に重要なのは、この最善の利益は、顧客が主観において最善と考えているものではなく、金融機関が客観的に公正な立場から最善と評価するものだということです。
これについては、例えば、国会の審議過程で、金融担当大臣は、顧客が金融商品の購入を希望するときでも、金融機関として、その購入が顧客の最善の利益に反すると判断するときには、販売すべきではないとの見解を表明しているわけです。
自己責任原則
商業の基本原則として、顧客が自分自身で判断し、自由意志のもとで取引するとき、その結果がどうなろうと、顧客が責任を負います。この自己責任原則は金融取引にも適用されるので、金融機関は、顧客の自由意思による判断に忠実であれば、その判断の結果について、責任を負うことはなく、法律改正においても、この基本原則は修正され得ないと考えられます。
しかし、自己責任原則が公正なものであり得るためには、顧客は、金融機関との情報の対称性のもとで、情報を適切に取捨選択し、それらを論理的に解釈し、自由意思による合理的判断を形成して、自己の最善の利益に適うように金融サービスを利用するとの前提が成立しなければなりません。問題は、この前提に疑義が生じていることです。
顧客の非合理的判断
そもそも、金融サービスは高度に抽象的であって、その利用に際して、顧客の主観的意図は、知識や経験の不足、あるいは感情的な好悪などのために、非合理的な方向へ誘導されやすいわけです。ところが、従来の規制のもとでは、いかに非合理的なことでも、それが顧客の意思であると確認されると、金融機関の責任が問われ得なくなっていたのです。
また、高度情報化社会の進展は、流通する情報量を激増させて、情報源を著しく多様化させているために、人は、主観においては、正しい情報を正当な情報源から入手し、それを合理的に解釈しているつもりでも、客観的な立場から公正に評価するときには、誤った情報を不正な情報源から入手し、誤認、独断、情動などに動かされて、非合理的な行動をとっている可能性があります。
こうした状況において、顧客に自己責任を課すことが公正であり得るためには、金融サービスの実際の利用に先立って、顧客の主観的判断の妥当性について、客観的な立場から検証される必要があります。故に、金融機関に対して、顧客の最善の利益の視点から、顧客の主観的判断を検証し、そこに顧客の真の利益に反する歪みを認めるのならば、再考を促し、最善の利益に適う別提案をする義務が課されたのです。
金融機関の責任
法律は、顧客の最善の利益を把握しろとも、それを実現しろともいっていなくて、単に、勘案しろといっているだけです。なぜなら、最終的には、顧客の自由意思が尊重され、自己責任原則が貫徹されるからです。故に、金融機関が再考を促しても、それに顧客が応じないで、結果的に損失を被ったとしても、金融機関には何の責任もないのです。
では、再考を促さなければ、金融機関に責任が発生するのか。どのように法律が適用されるのかについては、現段階では、不明点が多いわけですが、金融機関の対応として、法律の適用が明らかになった段階で、それへの遵守態勢を構築しようとすることは、そもそも、法律改正の主旨に反しています。
なぜなら、金融庁の一貫した考え方では、法令遵守は、ミニマムスタンダード、即ち、最低限のことにすぎず、本質的に重要なのは、金融機関の事業戦略として、ベストプラクティスを追求すること、即ち、まさに顧客の最善の利益に適うことだとされていて、今回の法律改正は、その金融庁の方針に法律上の根拠を与えたものだからです。
つまり、顧客の最善の利益を勘案することは、ミニマムスタンダードの法令遵守としてではなく、金融機関の持続可能な事業戦略において、ベストプラクティスの追求としてなされるのであって、当然にベストはミニマムの遥か上にあるのですから、顧客の最善の利益が真に勘案される限り、必然的に法令遵守が徹底されるわけです。逆に、表層的に法令遵守の徹底が目指されても、必ずしも顧客の最善の利益が真に勘案されたことにはなりません。
最善の利益を勘案することの意味
法律が顧客の最善の利益を把握しろといっていないのは、顧客自身が自己の最善の利益を理解していない可能性があるなかで、それを把握するために、金融機関が顧客に質問することは無益だからです。また、法律が顧客の最善の利益に適う金融サービスを提供しろともいっていないのは、顧客の最善の利益は、金融サービスを利用しないことで、金融サービスの外の領域で、実現される場合があるからです。
つまり、法律が最善の利益というとき、顧客の個別具体的な金融サービスの利用における最善性ではなくて、顧客の幸福な生活、あるいは事業の繁栄の実現において、最善な方法で金融サービスが利用されること、あるいは金融サービスの領域の外で最善な方法が採用されることが問題にされているのです。故に、顧客の最善の利益を勘案することは、顧客の幸福や繁栄について、常に関心をもち続け、注意を払い続けることに帰着するはずです。
医療におけるキュアとケア
医療において、患者の特定の病気や障害を治療すること、英語でいえばキュア(cure)することが目的だとしても、それに劣らず重要なのは、様々な不安に苛まれて、精神的に苦しんでいる人間としての患者に対して、医療従事者が患者の立場にたって、親身な関心を寄せること、あるいは特別な注意を向けること、英語でいえばケア(care)することです。もちろん、このケアは、日本語として定着している介護ではありません。
キュアとケアの違いを例で示せば、キュアにおいては、医師は、病状等について様々な質問を患者にするなかで、痛いですかと問いますが、ケアにおいては、看護師は、患者の表情などから痛みを推定し、それを自分も共有するかのようにして、痛いですよねと優しく声をかけることになるわけです。おそらくは、痛みは、キュアによって患部から除去される以前に、ケアによって精神的に緩和されるのです。
金融機関は、顧客に生じた課題について、最適な金融サービスの提供によって、それを解決する、すなわち、キュアするだけではなくて、顧客には自分で気付いていない課題があり、あるいは顧客が課題を最適に処理していないこともあるので、顧客の動静に常に関心をもち、その微妙な変化に注意を払う、即ち、ケアする必要があります。顧客の最善の利益を勘案することは、このケアにほかなりません。
かかりつけ医としての金融機関
現在の医療分業体制からいえば、キュアは専門医の仕事であり、ケアはかかりつけ医と看護師の仕事です。かかりつけ医の最も重要な機能は、患者が素人判断で専門医に行くことを防止し、医師としての判断で最適な専門医を紹介して、医療の質と効率を改善することです。金融においても、キュアとケアの分業が必要であって、顧客の最善の利益を勘案することは、この分業を前提としているわけです。
また、健康診断も、かかりつけ医の仕事です。人は、自覚症状があってから、病院に行くので、手遅れになりやすいわけで、故に、定期的な健康診断が必要となるのです。金融機関の顧客も、自分自身に潜在的に生じている深刻な問題に気付かないことがあります。故に、金融庁は、金融機関に、顧客の最善の利益を勘案する義務を課すことで、定期的に、あるいは常時、顧客の健康診断をするように義務付けたのです。