【富田林市】「八百屋お七」を裁いた江戸南町奉行は、富田林に領地を持っていた! 井原西鶴作品にも登場
以前、ここで幻の富田林藩を紹介したように、富田林と言えば藩はなく、どちらかといえば寺内町を中心に町人が頑張っているイメージ。どちらかといえば、殿さまや領主の影が薄いですね。
しかし、実際には富田林市内に各地域の大名が一部の領地を支配したり、旗本が領地をもっていたりしたのは事実。楠木正成の弟である正季(まさすえ)の子孫とされる甲斐荘(かいのしょう)氏も、そんな旗本の一族です。
戦国時代に畠山氏に仕えていたという甲斐荘氏は、やがて徳川家康の家臣として活躍したことから、甲斐荘正房が河内国錦部郡(にしごりぐん)2000石と河内長野市にある烏帽子形城を賜ったとか。(城はのちに廃棄)
錦部郡は富田林の一部と河内長野市に該当しますが、甲斐荘氏が領地としてもらっていた場所を改めて確認すると、富田林市内では旧錦郡村が該当。ただし村全体ではなく、隣にあった狭山藩北条家も村の一部を支配していたようです。
ちなみに旧錦織村の範囲でどの部分が甲斐荘氏の所領だったのかと言った詳しい情報は、今回調べてみた限りでは残念ながら見つかりませんでした。
ただ甲斐荘氏は、代々旗本として、江戸幕府の要職を務めた記録があります。正房の孫にあたる甲斐庄正親(まさちか)は勘定奉行や江戸南町奉行を担当しました。
江戸(北・南)町奉行と言えば、テレビの時代劇にもなった大岡忠相(大岡越前)や遠山景元(遠山の金さん)が有名ですが、実は正親もある歴史上の事件を題材した作品に登場する町奉行として有名です。
正親が町奉行として名前が出てくるものとして、「八百屋お七」があります。これは実在したとされる放火事件を元に、井原西鶴が「好色五人女」の題材に取り上げました。以降、このお七の物語をさまざまな作家が小説に。また浮世絵や浄瑠璃などでも取り上げられました。
物語の大まかな内容は、お七の家(八百屋)が火事になり、寺に退避した時に出会った寺小姓と恋仲に。その後、家に戻っても小姓のことが忘れられず、もう一度寺に戻りたいと放火したというもの。その後お七は捕まり、町奉行の正親が裁きをします。
実在の放火事件とはいえ、実際には様々な作家が脚色や設定をアレンジしていることもあって、正親がこのような裁きを行ったという証拠はありません。しかし、富田林ゆかりの人物が歴史の物語に登場するというのは、なかなか面白いですね。
ここで実際の正親の経歴を紹介しましょう。これを見る限り、正親は幕府内での出世コースを突き進んでいることがわかります。
- 1648(慶安元)年 3代将軍徳川家光に拝謁
- 1654(承応3)年 小姓組(こしょうぐみ:小姓ではなく将軍の親衛隊としての戦闘部隊)
- 1666(寛文6)年 使番(つかいばん:遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務)
- 1667(寛文7)年 から但馬、丹波、北陸地方に巡見使(じゅんけんし)として各地に向かう
- 1672(寛文12)年 御勘定頭(勘定奉行)
- 1680(延宝8)年 江戸南町奉行
- 1682(天和2)年頃 なんども領地が増やされてこのころ4000石の大身(たいしん)となる。
正親が父の跡を継いだ時には2000石の旗本だったものが、最終的に倍の4000石の旗本になったのですから、彼が相当優秀だったということでしょう。なお正親の最期は、南町奉行在任中、1690年(元禄3年)に没したとあります。
お七の事件は江戸で起きたことなので、富田林には形跡などはありません。それでも今でも伝わる「八百屋お七」の登場人物が富田林市内に所領を持っていたと聞くと、改めて物語をじっくりと読んでみようかと思いました。