【九州三国志】文化の守護者、大友宗麟の趣味と信仰!茶と南蛮貿易が織りなす戦国大名の軌跡
大友宗麟(義鎮)は、文化を愛し諸芸に通じた戦国大名でした。
彼は書画や茶道、蹴鞠、能に親しみ、永禄12年(1569年)には狩野松栄、元亀2年(1571年)には狩野永徳を豊後に招いて障壁画を制作させています。
また、将軍足利義輝から蹴鞠専用の衣服を贈られるほどの愛好家でもありました。
収集癖も強く、新田肩衝などの名品を所持し、財政を圧迫するまでに至ったことは息子義統の書状にも記録されています。
また、南蛮貿易を行い、博多の商人たちと交流しながら、日明貿易や日朝貿易にも関わったものの、これらは主に奢侈品の輸入に留まり、大きな経済的利益には繋がりませんでした。
経済が困窮する中、恩賞として領土の代わりに家紋の使用権を与えるなどの工夫を余儀なくされたのです。
宗麟はキリスト教徒としても知られ、フランシスコ・ザビエルとの出会いをきっかけに信仰を深め、天正6年(1578年)に洗礼を受けました。
彼は宣教師たちを保護し、西洋医学を取り入れるなど領内の発展に努めたのです。
豊後ではポルトガル人医師が日本初の外科手術を行い、宗麟は無料診療所を設立するなど、医療分野でも先進的な試みを行いました。
宗麟はキリスト教への信仰を深める一方、従来の仏教を見限り、寺社仏閣の破壊を断行したのです。
日向での「キリスト教王国」建設の夢のもと、神社仏閣や仏像、経典の類を徹底的に破壊し、金曜日や土曜日の断食も行ったのです。
しかし、本拠地豊後や筑後での破壊行為については次期当主義統によるものとされ、宗麟の直接的な関与を示す資料はありません。
また、キリスト教への改宗は家臣団の離反を招き、晩年には国人の反乱が多発する事態に陥りました。
信仰のための破壊行為は宗教的信念だけでなく、仏僧の奢侈を嫌い領土を削る政治的意図も含んでいたとされるものの、結果的に宗麟の統治に深刻な影響を与えました。
宗麟のもう一つの側面は、戦国の「慈悲深き王」としての姿でした。
臼杵城籠城中、キリスト教徒もそうでない者も城内に避難させ、自ら握り飯を配ったとされます。
また、キリスト教徒としての教義に基づき「殺すなかれ」と問う宗麟に、戦上での殺生は問題ないと宣教師が答えたエピソードも記録されているのです。
天正10年(1582年)には、天正遣欧少年使節として伊東マンショを派遣するなど文化交流にも尽力したものの、宗麟自身がどこまで関与していたかについては不明な点も多いです。
彼の名前にちなむ「宗麟かぼちゃ」は、西洋から持ち込まれた野菜の象徴として現在も栽培されています。
宗麟の治世の特徴を象徴するのが「政道十九条」とされる分国法ですが、真偽については議論が分かれています。
文化人、宗教者、政治家としての多面的な活動を通じ、宗麟は戦国時代の多様性を体現する存在でした。