【九州三国志】帰参した名将!大友家を支えた佐伯惟教の活躍
佐伯惟教は、豊後の名家・佐伯氏の当主として、大友宗麟に忠義を尽くし、激動の時代を戦い抜いた武将です。
天文19年(1550年)、宗麟を奉じて府内を制圧し、重臣として活躍。
その後、肥後国の菊池義武討伐や多くの戦役で武名を挙げました。
しかし、惟教の家系である他紋衆の佐伯氏は大友家中で不遇な扱いを受け、一時は反乱の疑いをかけられ、伊予国に亡命することを余儀なくされたのです。
その後、大友氏と毛利氏の争いが激化すると、水軍を指揮する惟教の必要性から宗麟に帰参を請われ、永禄12年(1569年)に復帰。
以降も栂牟礼城を与えられ、加判衆として宗麟の側近に列しました。
伊予国の一条兼定を救援し、飯森城を攻略するなど、その軍略を発揮。
剃髪後も忠誠を尽くし、日向国の松尾城主・土持親成討伐などで戦功を重ねたものの、この一連の戦いで妹婿の親成が自害に追い込まれるなど苦悩も多かったのです。
天正6年(1578年)、宗麟がキリスト教的理想を掲げて日向に侵攻すると、惟教は島津勢と対峙する高城攻めに参加。
島津家久との前哨戦では勝利を収めたものの、大友軍全体の士気は低く、部隊間の連携も乱れていました。
さらに、島津義久の本隊が迫る中で行われた軍議では、惟教と田原親賢が慎重な策を主張したものの、田北鎮周がこれに反発し独断で突撃。
これが混乱を招き、耳川の戦いが始まりました。
惟教は全軍を率いて奮戦したものの、統制を失った大友軍は島津勢の猛攻に崩壊。惟教も嫡男の惟真らと共に討死しました。
この敗北で大友家は衰退の道を辿り、佐伯氏もまた、その中核を失うことになったのです。
しかし、惟教の忠義とその生涯にわたる奮戦は、激動の戦国時代における名将としての誇りを後世に残しています。