【九州三国志】豊臣の傘下に入る大友氏!苦境を乗り越えた義統、家名存続の道を選ぶ
父・宗麟の嘆願により、大友家は豊臣秀吉の傘下に入り、義統は島津氏との戦いに挑むこととなりました。
戸次川の戦いでは援軍として派遣された長宗我部元親や仙石秀久らが惨敗し、大友家の重臣である利光宗魚や戸次統常を失うなど苦難が続きます。
その間、義統は府内を退去し、島津軍が豊後を制圧するのを許すものの、宗麟や立花宗茂ら家臣たちは各地の城で奮戦を続けました。
その後、豊臣軍の総大将・秀長を中心とする大軍が到着し、日向国へ進軍。
耳川を渡り高城を包囲すると、4月には島津軍との激しい「根白坂の戦い」が勃発したのです。
豊臣軍は空堀や板塀を駆使して陣地を堅守し、後詰の藤堂高虎や小早川隆景らの援軍も加わり、ついに島津軍を退けることに成功しました。
この結果、大友氏は豊後一国と豊前宇佐郡半郡、計37万石を安堵され、滅亡の危機を脱することとなります。
戦後、義統は島津方に降伏した家臣たちを徹底的に粛清し、その過程で無実の者までもが犠牲となりました。
家中の混乱が続く中、天正16年(1588年)、義統は上洛して秀吉に謁見。秀吉から「吉」の一字を賜り、吉統と改名。
豊臣姓を許されるとともに、従四位下・侍従に叙されるなど破格の待遇を受けました。
さらに天正18年の小田原征伐や文禄の役にも参戦し、豊臣軍の一員としてその地位を固めていったのです。
文禄の役に際しては黒田長政とともに6,000の兵を率いて参戦する一方、家督を嫡子・義乗に譲り、家訓21ヶ条を残すなど、後進に道を譲る姿勢を示しました。
その家訓には「下戸であること」を求める一節があり、自身の酒癖を反省したものと見られます。
波乱に満ちた生涯を経て、義統は豊臣政権の一翼を担う大名として大友氏を存続させる道を選んだのです。