【九州三国志】豊後府内改易の悲劇!主家再興を夢見た波乱の晩年
文禄2年(1593年)、文禄の役における失態が大友吉統の運命を大きく揺るがせました。
平壌城で包囲された小西行長の救援要請を受けたものの、誤報により撤退を決断し、行長を見捨てた形となったのです。
これが豊臣秀吉の怒りを買い、熊谷直盛ら軍目付による詰問を受け、ついに改易を言い渡されたのです。
剃髪して宗厳と号したものの、豊後国と豊前宇佐半郡の領地は没収され、大友家は没落しました。
秀吉の不信感は以前から募っていたとも言われるものの、これにより吉統は大名としての地位を完全に失ったのです。
その後、幽閉の身となった吉統は江戸、水戸、山口などを転々とし、旧家臣たちも他大名の客将となり散り散りとなりました。
慶長4年(1599年)、秀吉の死後に特赦を受け幽閉から解放され、再び豊臣家に仕えるも、大名としての復帰は叶わなかったのです。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍につき、かつての領国である豊後国の奪還を図りました。
島津氏や毛利輝元の支援を受け、旧大友家臣が次々と集結し、国東半島の諸城を攻略します。
石垣原の戦いでは序盤こそ優勢だったものの、黒田如水と細川忠興の連合軍に敗北を喫し、剃髪の末に降伏したのです。
戦後は秋田実季の預かりとなり、その後常陸宍戸に流罪となりました。
流刑地では「大友家文書録」を編纂し、大友家の歴史を後世に伝える貴重な記録を残したが、その人生は波乱に満ちていたのです。
慶長10年(1605年)、宍戸で死去。大友家は嫡子義乗が旗本となり、高家として家名を存続させたものの、かつての栄華を取り戻すことはありませんでした。