【九州三国志】足利との決裂、織田との絆!迷走する大友義統、家中の崩壊と九州の激動
永禄元年(1558年)、大友宗麟の長男として生まれた義統は、将軍足利義昭から偏諱を受けてその名を賜り、後に父の隠居を機に大友家の家督を継ぎました。
しかし、彼の当主時代は試練と混迷に満ちていたのです。
義昭が大友家を「九州六ヶ国の兇徒」と非難したことで幕府との関係は決裂し、義統は織田信長に接近します。
天正7年(1579年)、信長の推挙により天皇から従五位下・左兵衛督に任官され、毛利氏を牽制するため長門・周防の割譲も約束されます。
だが、これは彼の立場を一時的に安定させただけに過ぎませんでした。
天正6年、義統と父・宗麟の指揮の下で行われた日向国への遠征は、耳川の戦いで島津氏に大敗します。
これをきっかけに大友家臣団の分裂が進み、義統と宗麟の二頭政治も破綻をきたし、内紛が激化したのです。
天正8年には田原親貫や田北紹鉄が反乱を起こし、秋月種実と内通します。
さらに、重臣立花道雪の死や、肥後方面を押さえる志賀氏との断絶も相まって、大友家の領土は急速に島津氏や龍造寺氏に侵食されていきました。
天正14年、島津義久が豊後に侵攻すると、家臣の離反が相次ぎ、大友家は滅亡の危機に瀕しました。
高橋紹運の壮絶な戦死(岩屋城の戦い)や家中の不和が拍車をかけ、義統自身も戦場から逃亡し、寵愛する妾の救出を家臣に命じる始末だったのです。
この行動は家臣たちの信頼をさらに損ない、忠誠を尽くした臼杵刑部が逐電する事件まで引き起こしました。
後世、義統は「不明懦弱」(識見や決断力に乏しく弱々しい)と評され、酒癖の悪さや優柔不断な性格も批判されました。
一方で、父・宗麟が進めたキリスト教政策や神社仏閣の破壊には、義統自身も積極的に関与していた可能性が指摘されています。
豊後府内を放棄した際の行動も、彼が自らの行動に対する責任を果たせなかった証として記憶されているのです。
義統の治世は、大友家の衰退と九州全体の混迷を象徴するものでした。
内紛と対外戦争に翻弄された彼の姿は、戦国時代の栄枯盛衰を物語る一幕として記憶されています。