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【河内長野市】西高野街道が狭山・茱萸木との市境付近で迂回しているのはなぜ?市境にある稲荷社の謎とは

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

西高野街道は堺市から河内長野市まで続いていて、通りにある昔ながらの地蔵や祠は、今でも地元の人に大切にされています。

ところで、天野川(西除川)を渡るあたり、ちょうど大阪狭山市から河内長野市に入るあたりは不思議な光景が見られるのです。

こちらの地図で確認しましょう。河内長野市の最北部は富田林市と大阪狭山市と接していますが、西側にある青い線の西高野街道をみると、ちょうど市の境目辺りにその前後と比べて大きく左側に迂回しています。

もちろん、その途中にある天野川が蛇行している関係でそうなっているとも考えられますが、少し不思議な気がしました。そこでいろいろ調べて見ると、SNSで「西高野街道が昔のルートと変わって迂回している可能性があるのでは?」という口コミを見つけました。

先ほどの口コミにもあるように、西高野街道が迂回するところをよく見ると、細い道と道の痕跡がありますね。その口コミをもとに該当する道を黒く塗ってみました。

確かにこの黒い道を見ると、迂回せずにほぼ一直線に大阪狭山市から河内長野市に道が続いています。さらに驚いたことに、細い道の線上に稲荷社があることがわかりました。しかもそこが、市の境にもなっているのです!

ということで、実際にはどうなっているのか見にいってみることにしました。西高野街道を河内長野市の最北地点に向かって歩いています。

この辺りから西高野街道が左方向に迂回しています。右側にも道らしきものが見えますね。下り坂になっていますが、それはこの先に天野川があるからです。

右側を拡大してみました。途中に柵があり、通れる雰囲気ではありませんが、さらに下りの道が続いているように見えます。

そちらでは曲がらずに、そのまま西高野街道を歩いていきます。ちょうど天野川が見えるあたりですが、手前は荒地そのものです。

やがて西高野街道から南側に見えてきました。この小さな祠が河内長野市の市境にある稲荷社のようです。

稲荷社を見ながら、さらに西高野街道を北方向に歩いていきましょう。

フェンスの横を歩いていくと、どうやら市境に来たようです。

ここで、河内長野市から大阪狭山市に入りました。

その先には、すぐに橋が見えます。天の川に架かる橋ですね。川が市境になっていないというのも不思議なところ。

この橋の名前は「あまのばし(天野橋)」です。

橋から東方向を見ると、小さな橋が見えます。あの橋を渡れば、先ほどの小さな稲荷社に行けるようです。

橋を渡ったところに再び大きな曲がり角がありましたが、その先はこのようにほぼ一直線で、ずっと北方向にある堺方面に向かっています。ここは茱萸木(くみのき)という名前の地名ですが、読み方が難しいですね。

この道の先に天野橋と河内長野市がある
この道の先に天野橋と河内長野市がある

茱萸木の由来を調べると、茱萸(ぐみ)という植物が多くあった場所という説と、鎌倉時代の1263(弘長3)年の太政官符に「佐志久美岡」という文章があり、そこから転じたという説があるようです。

いずれにせよこの場所に多く人が住むようになったのは江戸時代に開発された茱萸木新田からのようです。1637(寛永14)年に茱萸木新田の開発が始まり、当初は天領(幕府領)だったものが、1705(宝永2)年に舘林藩秋元氏の領地になるとあります。

また現在の茱萸木地域を地図を見ると縦長で、その真ん中に西高野街道が通じているのがわかります。

さて、茱萸木地域の真ん中を通っている西高野街道が、河内長野市に入る手前で右方向に迂回しています。しかし前方向にもまっすぐの道があり、この細い道が最初の地図で黒く線を引いた道です。

それでは、そのまっすぐの道を歩いてみましょう。前方方向にある天野川に向かって道が一直線です。

このあたりは建て替えられている家もありますが、古い時代からの建物らしいものも見られ、やはりここは古い街道の名残りではという気がします。

途中にあったお地蔵さんに、おため地蔵と書いてありました。情報を調べると、大阪狭山市史にも登場する地蔵とのことで、もともとは西高野街道が迂回するところの信号の右手にあったものを、この草沢集会所敷地に移転させたそうです。

2014(平成26)年5月18日に移転したと刻まれていますね。

おため地蔵の先に簡易的な橋があります。その先に稲荷社と河内長野市に通じる道があるのでしょうか。

どうやらこの橋を渡った先に稲荷社があるようです。

先ほどの天野橋と違い、こちらの橋は川との高低差が低いですね。ところで橋を渡り終えたところに、さきほどの稲荷社があるのですが、残念なことに周辺が立ち入り禁止になっています。

これは反対方向から撮影したものですが、立ち入り禁止なのはどうやら赤や黄色の工事用のコーンが置いている場所よりも右側のようです。左側には人が歩いた痕跡がはっきりと見えます。つまり稲荷社に向かって細い道があり、参拝することはできるようです。

ということで、コーンの手前の立ち入り禁止ではない細い道を歩いて稲荷社に参拝しました。ここが河内長野市と大阪狭山市の境界線です。

稲荷社からは引き返しましたが、もうしばらく先まで進めるようになっていて、その先は立ち入り禁止になっているようです。

奥を見ると登り坂にはなっていますが、道があったような痕跡があり、最初に見た下り坂とつながっているようにも見え、もともとは道があったような気がしました。

西高野街道から狭山ニュータウンに向かう道
西高野街道から狭山ニュータウンに向かう道

ではなぜ境目に祠があるのかを考えてみると、ひとつの事例として茱萸木と狭山ニュータウン方面大野台の境目に、「塞の神(さいのかみ)」の祠があるそうです。

調べると茱萸木新田を開発し人が住むようになると、その人たちが神霊として塞の神を祀りました。これで他界(他の地域)から入り込んでくる邪霊疫神の防止を図ったそうです。

塞の神ではありませんが、今回見にいった茱萸木の南側と与通北(河内長野市松ヶ丘)地域との境に稲荷社を祀ったのは、もしかしたらそういう意味があるのかもしれませんね。

この下に廃屋と稲荷社がある
この下に廃屋と稲荷社がある

ではなぜ街道だったところが迂回しているのかと考えると、ふたつの市にまたがっている荒地が売地と書いた看板があり、よく見ると草に覆われた廃屋が見えます。

廃屋らしき建物が見える
廃屋らしき建物が見える

もしかしたらそれが原因で本来の西高野街道を大きく西側に迂回させたとも考えられなくはないですが、さすがに情報が無いので、何とも言えません。

ということで、西高野街道が河内長野市と大阪狭山市の間で迂回しているところと市の境の場所にあった小さな稲荷社を見てきました。

実際に歩いてみると車の移動では気づかない発見があるので楽しいですね。

市境の稲荷社
住所:大阪府河内長野市松ケ丘中町
アクセス:南海滝谷駅から徒歩15分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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