あれから30年、「近鉄・ロッテ 川崎球場10.19」とは何だったのか
今は蹴球場となり、富士通スタジアム川崎と名を変えた旧川崎球場に行ってきた。あの「10.19」から30年が経過した日のことだ。昭和最後の10月の出来事の歴史的意義を、平成最後の10月に振り返る。
10.19とは
プロ野球の歴史を語る際に欠くことのできないドラマだ。また、今は消滅してしまった近鉄球団のファンにとっては、「江夏の21球」「巨人に3連勝後の4連敗」とともに、悲劇の3部作のひとつと言えるかもしれない。
昭和63年10月19日、パ・リーグ2位の近鉄は、そのシーズン最後の戦いとなる川崎球場での最下位ロッテとのダブルヘッダーに臨んだ。近鉄には逆転優勝の可能性があった。その唯一の条件はこの日の連勝で、引き分けが1試合でもあれば首位西武の逃げ切りが決まるという状況だった。
したがって、この2試合は近鉄ファンからの視点で述べられることが多いのだけれど、両試合とも希望と悲嘆、歓喜と絶望、喝さいと悲鳴が交差する大熱戦となった。普段は閑古鳥が鳴く川崎球場には想定外の大観衆が詰めかけ、入りきれないファンは近隣のビルを占拠?し、階段や屋上から戦況を見守った。「テレビじゃ見れない川崎劇場」だが、テレビ朝日は予定を急遽変更し、試合途中からではあったがCMなしの生中継という英断を下した。
また、連勝のみが逆転優勝への道だった近鉄に対し、「ダブルヘッダー第1試合では延長戦はなし」「4時間を超えたら新しい延長イニングには入らない」というルールの壁も立ちふさがった。第2試合9回裏のロッテ有藤監督による悲鳴と怒声が飛び交う中での「無情の抗議」によるタイムロスという要素もあった。
最終的には、近鉄は第1試合に4対3で勝利するも、第2試合は延長10回4対4の引き分け。先攻の近鉄は、夢と希望を失いながらも10回裏の守りを全うせねばならなかった。
なぜ語り継がれているのか
「10.19」はこれまで何度もテレビやラジオ、雑誌でドキュメンタリーとして取り上げられた。また、これを題材にした近鉄応援団長によるノンフィクションも出版されている。この日の2試合が、30年後の今も語り継がれているのは、語るべき要素が極めて多かったからだ。「逆転優勝には連勝しかない」という舞台設定、両試合での目まぐるしく変わる戦況、第1試合での窮地を救った梨田の現役最後の打席などの選手個々のドラマ、時間切れによる「引き分け」との戦いの中での敵将の抗議と最下位ロッテの意地。試合そのもの以外にも、川崎球場にとって未曾有の大観衆とそれによる混乱、急遽決まったテレビ中継などが挙げられる。
見落とせない時代背景
しかし、個人的には「10.19」を語る際に上記のその日単体のFactだけではなく、時代背景も抑えておく必要があると思っている。それは当時のパ・リーグがセ・リーグに比べ圧倒的に日陰の存在であった、ということだ。
平成生まれの比較的若いファンは、もはやパが人気面でセに劣るという意識も希薄だと思うし、今やそれは事実ではない。しかし、昭和の時代はそうではなかった。圧倒的人気を誇る巨人の影響力の下で栄華を謳歌したセに対し、パブリシティという点ではパはどうしようもなく劣っていた。ハイレベルで熱い戦いが繰り広げられるフィード上とは対照的に、ガラガラのスタンドに響く内野スタンドの応援団長の手拍子と辛辣なヤジ、これがパの象徴だった。
この頃のパは存在自体がブルースで、それを愛することはイデオロギーだった。そして、「10.19」の同日に、阪急の身売りが発表された。その4日前には南海の大阪球場での最後の試合が行われている。ある意味では、昭和のパの行き詰まりが限界に達した段階での出来事だったのだ。
「10.19」の翌年のドラフトで野茂英雄が近鉄に入団する。その後、イチローという超スーパースターが登場し、「平成の怪物」松坂大輔がそれに続く。フィールド上以外でも、九州でのホークスの成功に触発され、日本ハムは北海道に移転し、球界再編成を経て東北にも楽天が誕生した。一時は関東と関西だけでやっていたパの地理的拡大は、セ・パ間の形而上学的な部分も含めたパワーバランスを劇的に変化させた。
しかし、「10.19」の段階ではそうではなかった。常に日陰の存在だったパ、その象徴だった近鉄と川崎球場に突如訪れた1日限りのセンターステージ、そして悲劇的な結末。これらがはかなさに揺り動かされる日本人の琴線に触れたのだと思う。
30年後の「10.19」
平成30年10月19日、ぼくは富士通スタジアム川崎で行われた10.19記念イベントに参加した。主催は同スタジアムの指定管理者である川崎フロンターレとパ・リーグを愛するあるファンの会とのことだった。施設内の会議室では当時を振り返る座談会が行われたのだが、普段同様に勤めを終えて駆け付けた時にはすでに会場は満杯、で外から垣間見るしかなかった(まるで、10.19だ)。
川崎フロンターレ広報のガイドによるスタジアムツアーに参加した。当時から残るバックネット周辺や外野フェンスの一部など、在りし日の川崎球場を偲べる部分をひとつひとつ丁寧に説明してくれた。何よりも感心したのは、彼らは「歴史を知ってほしい」というだけではなく「それを将来につなげたい」と力説していたことだ。「球場」という施設も時の流れとともにその役割を終える。昭和の時代の球場の多くは跡形もなく取り壊され、痕跡すら残っていないものも多い。しかし、野球場時代は揶揄されてばかりだった川崎球場が、その役目を終えた今は蹴球場に姿を変えながらも現存し、地域に貢献しているのは素晴らしいことだ。われわれ野球ファンは、川崎フロンターレに感謝しなければならない。
イベント終了後、旧知の野球を愛する友とこの日紹介いただいた方との三人で、古き良き時代を中心とする野球談議に花を咲かせた。