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なぜ松田直樹は愛されたのか?Jリーグ史上最高DFの肖像。

小宮良之スポーツライター・小説家
一人の良きパパでもあった松田直樹(写真:築田純/アフロスポーツ)

 2017年7月28日、群馬。車を停めて外に出ると、むっとした空気が襲ってくる。 暑さに辟易しながら、引き戸を左に引くと、一息つく涼しさと香りに安堵する。花で埋め尽くされた一室では、水槽の亀がのそのそと動いていた。

「ふたつにわけますか?」

 花屋の女性店員が確認する声に、「お願いします」と返事をした。対に生けられるように、お墓参りでは常識なのだろう。大菊、スプレー菊、りんどう、そしてカーネーション。カーネーションのピンクが賑やかで、引き立っていた。お線香もそこで調達し、車でさらに坂道を上って、山の中腹のような場所に着いた。高台で木々に囲まれているため、ひっそりとしている。その静寂が墓地にふさわしい気がしたし、彼には静かすぎる気もした。手桶に満たす水が、じょろじょろと音を鳴らす。日に焼けたひしゃくはプラスチック製だった。

自分をさらけ出し続けた異才

 2011年8月4日、松田直樹(当時、34才)は所属する松本山雅での練習中に心筋梗塞で倒れ、一時は心臓の鼓動が戻ったものの、帰らぬ人となっている。

 2002年日韓ワールドカップ、松田はセンターバックとして日本代表のベスト16進出に大きく貢献した。長年プレーした横浜F・マリノスではJリーグ連覇など数々のタイトルを手にし、J史上最高のディフェンダーの一人と言えるだろう。そのプレーは守備者という枠に収まりきらず、豪快で勇敢。歯に衣着せぬ言動も含め、ピッチでの荒々しい存在感は他の追随を許さなかった。

 今年で七回忌になる。時の流れは、はやいものだ。

 しかし、松田を取材していたときの記憶は色あせない。

 理由があって、地下鉄を使って二人で移動したことがあった。松田は「面倒で自分でカットした」というぼさぼさの髪に、白いTシャツに短パンという出で立ちだったが、車両の中で異様なほど目立っていた。立ち姿だけで圧倒する一方で、周囲を気にせずあけすけに笑って、近寄りがたい雰囲気を出すわけではない。オーラと言われるが、それは意識的に出すものではなく、無意識に放たれるものだと思い知った。

「甘いものは基本的に好きで、中でもアイスはマジ好き。放っておいたらずっと食い続けられる。だから、アイスを我慢して体を追い込むときは、もうマゾの気分になるしかなかった」

 日韓W杯で日本代表として全てを出し切った戦いを、松田はそう言って笑顔で振り返っていた。表現がどこか憎めない。自分を少しも飾らない選手だった。

 それが松田が人々に愛された理由だろう。

 しかし、すべてをさらけ出せる人間なんていない。

弱いからこそ、強くなれた

「俺は気持ちが弱いんすよ」

 本当の松田は、繊細さを大胆さで隠しているようなところがあった。

「Jリーグに入った頃、生意気なことを言っていたけど、内心はびびっていた。ラモン・ディアスやビスコンティという世界的な選手、他にも日本代表選手ばっかりで、パス一つでもミスったらどうしよう、とびくびくしていた。そんな気持ちを隠すために、大口を叩いた。適当にやるなんてもんは、俺にあり得なかったし、いつも腹を括って。自分にとってサッカーはすべてだったし、常に真剣勝負だったからね」

 松田は己の弱さと向き合えた。その弱さこそ、彼の強さだったのかも知れない。それは多くの人が抱えている矛盾で、だからこそ共感されたのではないだろうか。

 一度取材で、横浜にある地鶏専門料理店に出かけたときだった。“勢い良く食べるのに品があるな”と感心していると、彼は思い出すように昔話をした。

「高校のときは母親に頼んで、親子丼を作ってもらったんすよ。トッピングにニンニクを混ぜて、体力作り。『鶏肉のささみは低脂肪高タンパクだからいい』って話を聞いてさ」

 そう明かす松田は、母への感謝を忘れていなかった。口は悪かったが、その裏返しで自分を身近に支えてくれた家族を大事にしていた。それはスポットライトを浴びると、忘れてしまいそうになることだ。

「子供たちのために、少しでも長く現役を続けたい。サッカー選手は自分が戦っている姿を見せられる最高の職業。親父として尊敬される存在でありたいと思う」

 晩年の松田は、父親としてしゃかりきに戦っていた。そこに生きる意味を見いだしていたところがあった。痛む膝を叱咤しながら、サッカーの熱が湧き上がるアルウィンスタジアム(松本の本拠地)の力を借りようとした。

「俺の親父はあんまり喋らなかったけど、いつも自分たちを見守ってくれていた。そんな男になりたかった。背中で語る、みたいなね」

 そう語る松田は、長女が書いた「パパがサッカーを頑張る姿が見たい」という手紙を大事にしていた。彼が返事を書いたのか、それは聞いていない。しかし、ボールを蹴る生き様で返せたのではないか。

 松田は感受性が敏感で、飛び抜けて感情量が豊富な選手だった。そうやって戦う姿が、人々の心をとらえて放さなかったのだろう。しかし真実の彼は一人の息子で、一人の父親で、一人の男で、近い世界をとても慈しみ、大事に思っていた。家族がいるからサッカーに打ち込み、すべての情熱を燃やすことができたのだった。

「俺にはサッカーしかない」

 そううそぶくのが、松田直樹という男だった――。

 お墓は綺麗に整えられていた。掃除する必要もないほどだった。命日が近く、ファンの人が訪れたのだろうか、数日前に生けられた花がまだ咲き誇っていた。ライターで線香に火をつけ、線香台に寝かせておく。盛大に煙が舞い上がった。松田に歓待されたような気がしたが、それはきっと錯覚なのだろう。

 

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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