小説家の夢かなえた高見沢俊彦の“可能性”
今年結成45周年の「THE ALFEE」高見沢俊彦さん。デビュー小説「音叉」が発売1週間で重版となり、話題を呼んでいる。実は小説家になりたかったという少年時代から、ALFEEを続けるために必要だというソロ活動についても語ってもらいました。
――「オール讀物」(文藝春秋刊)で不定期連載してきたデビュー小説「音叉」が本になりましたが、オファーが来た時はどう思いましたか。
うれしいっていうより、戸惑いの方が大きかったですよね。「えっ、なんで?」って。「ボクが書けるかどうかも分からないのに、大丈夫なのかな?」って。書きたいとは思っているけど、書きたいと思うだけでは書けないじゃないですか。でも、編集の方は、ボクの「父の本棚」っていうエッセーを読んで、もしかしたらいけるんじゃないかと思ったらしいんです。
高校生の時かな。密かに小説家になりたいと思っていました。だからそれがやっと還暦を過ぎて、かなったって感じではあります。子供の頃から教育者の父の影響で、本が家にたくさんあって、それを読むのが好きな子供だったんですよね。
でもいくら読んだってねぇ、書けるわけじゃないですから。だからその夢は自分の中で封印していました。小説と作詞は、やっぱり違う。ただ、不定期ながら連載ということだったんで、必ず締め切りがありますよね。その締め切りに向かって書いていけば何とかなるのかなって。そこは曲作りと一緒だな、と。ここでオファーが来たということは、これを逃したらもう二度とないだろうなっていう思いもありましたから。本が好きでずっと読んできた自分の1つの形として、締め切りに向かっていくのもいいかなと。戸惑いながらもなぜ書けると思ったのか…。編集の方に背中を押されたって感じですかね。
自分のソロシングルを7月25日に発売しましたが、その詞は、小説を書き終えた後に書いたんです。「文字数少なっ!」て、すごく新鮮に感じました(笑)。今までは曲を先に作っていたんですけど、逆にイメージができて、ある程度、詞を書いてから曲を作ることが多くなりました。それは小説を書いた効果だと思います。メンバーの桜井(賢)と坂崎(幸之助)には出来上がった本を一応、渡したので読んでくれているとは思いますけど。おもしろかったのはね、「小説書いたんだよ」って言っても、2人とも驚かないんですよ。「いつか書くと思ってた」って。「常にギターケースに本が入っていた」って指摘されました。
――小説の題材はすぐに決まりましたか。
いろいろ悩みました。題材もそうですけど、書き方も。編集の方に、他の作家の方はどのように作られているのか聞いたんですが、千差万別なんですね。プロットをしっかり作る人、エンディングだけ決める人、大まかなイメージだけを自分なりに作って提出する人。まったく何も考えずに書き出す人。それこそ曲と一緒だなと思って。じゃあ何も考えずに書きたいものを書いていこうと。ただ、ALFEEは今年結成45周年。「45年間ミュージシャンなので、それを活かさない手はないんじゃないですか」と言われたので、音楽の中で書いてみようかなという気持ちにはなりました。
苦労したのは、全くのフィクションなんですけど、素材が70年代とかなり前なので、その記憶を呼び覚ますこと。ただ、書き出すと、これが不思議によみがえってくるんです。それがおもしろかったなぁ。何が書きたいのかっていうと、人とのつながり、“青春群像”。今はスマホであるとか、LINEであるとか、SNSで人と常につながっているじゃないですか。でも、人に聞いたら、カフェで恋人同士がLINEで話しているっていう…。考えられないでしょう!?何か変だなって。
というのは、ボクらの時代、70年代はネットがない時代。当時の恋愛というのはどういうものだったのか。ちょっと思い返してみたら、家の電話しかないんですよね。携帯がないんですから。だから時間帯によっては、相手の父親が出る場合があるわけですよ。出た時の対処の仕方とかあるじゃないですか。そういうことを考えて電話していたな~って。昔はずっとつながっていなくても、何かあれば友達も恋愛も、もっと密だったような気がするんですよね。そんな時代があったということを“青春群像”として書いてみたいなっていう気持ちはありました。
本の中では実際に起こった「三菱重工爆破事件」のくだりもあるんですけど、自分の中では鮮明な記憶として残っていて。なぜかというと、事件が起きたのは1974年8月30日。ALFEEとしてデビューしたのがその5日前だったんです。8月25日、しかも銀座で発表会をやったんですよね。その5日後の事件だったので、かなり鮮明な記憶として残っています。
こんなことが起こるんだ、東京で…と。テロですからね。高度経済成長が始まっていて、バブルに向かっていき、街がだんだんカラフルに変わっていっているのに、こんな危険性がある。カラフルさと危険が同居していた時代でした。
――そして、今回“Takamiy”として、ソロシングルも発売されましたが、『薔薇と月と太陽~The Legend of Versailles』と『恋愛Gigolo』。どちらも恋模様の歌ですね。
そうですね。『薔薇と月と太陽』は、ボクがルイ14世が好きなので。いい意味でも悪い意味でもすごい人だなと。ベルサイユ宮殿を作って、仮面舞踏会もそうですけど、毎晩、国が倒れるほど宴会状態じゃないですか。おもしろいのは、愛人でも“なんとか夫人”って呼ぶところ。夫人じゃなくて、愛人ですよ。でも当時の貴族の方って、結婚するまでは、愛の自由はなかったそうなんです。結婚して夫人になってこそ恋愛が自由になるんですって。だから夫人だらけ。“夫人”の“不倫”。あのベルサイユ宮殿の中ではそれが当然だったんですよ。
やっぱり人間って男と女、禁断に憧れる部分ってあるじゃないですか。だから時空を超えても、今も、そんなに変わってないよっていう恋模様ですかね。だからって、この歌詞が生まれたのはフランスではなく、イタリア・フィレンツェだったんですけどね。街を歩いていて、「あれっ、ここはイタリアか」「あっちはフランスかぁ」「おぉ~、遥かベルサイユ」みたいなね。
で、初回限定版ジャケットは、「ベルサイユのばら」の池田理代子先生が描いてくださったんです。もう、曲を作っている時から、歌詞の中に「薔薇」が出てきて、「ベルサイユ」が出てきて、これは池田先生の世界にすごく通ずるものがあると思って、先生しかいないなと。実は2014年に一緒にフランス観光大使をやったんです。食事にも行ったし、ALFEEの30周年の時もジャケットを描いていただいたり、全く見知らぬ方ではないので恐る恐るオファーしたところ、快諾していただきました。
オリジナルで描いていただき、「これTakamiyよ、みたいな」。原画も見たんですけど、これがまた素晴らしいんですよ、当たり前ですけどね(笑)。『恋愛Gigolo』は、80年代のダンスミュージックに乗せて、歌謡曲風にアレンジして、女性の言葉で書きました。
――4月から7月までALFEEで全国ツアーをしてきたのに、9月1、2日にソロライブを開催するなんてパワフルすぎませんか。
うーん、もうパワフルっていうかね、スケジュールが入ってるから、やらざるを得ないですけどね。ただ、休んで何かが生まれるかっていうと、もちろんあると思うんですけど、今のボクの場合は、動いていて生まれることの方が多いんです。小説を書きながら曲を書くのも、コンサートツアーをやりながら小説を書くのも。能動的に動いている方が、作品が生まれる可能性が高いんです。
それに、全く休んでないわけじゃない。1日中仕事をしているわけじゃないから、その中でうまく時間を使ってます。多分、ダラ~っとしたら、ずっとダラ~っとしちゃうからダメ。やっぱり締め切りとかがあった方が、それに向かえるので。締め切りがなかったらボク、一生レコーディングしてますよ。いや、そもそも書き始めないかもしれない。そういった意味では、創作においては、休みながら作るということは苦手なのかもしれないですね、ボクは。
それを、ぜんぜん苦とは思っていないですから。若い時は、飲みに行ったりとか、街の中で起こることに興味があったりとか、友達と会ったりとかしましたけど、もうそれは一通り卒業して…あっ!枯れてるわけじゃないですよ(笑)。自分の中での自分の時間、その使い方っていうのはやっぱり大事にしています。もちろん体のこともありますけど、ケアしなきゃいけないし。健康じゃないとツアーはできませんからね。ジムに行ったりとか、検査を受けたりとか、それはマメにやっています。
そういえばこの間、高校のクラス会があったんです。ボクは仕事で行けなかったんですけど、友達が集まった連中の写真を送ってくれたんです。見た瞬間、先生と生徒の線引きが、もはやなくなっている。「これが現実か」っていうのはありました。もちろん、なんとなく分かるヤツもいますけど、「誰だっけ?」みたいな人もね(笑)。これはALFEE、3人とも言えることなんですけど、ツアーをやって、ミュージシャンとして現役にこだわる。今を生きていなければしょうがないじゃない。ただ長くやるっていうことはできるかもしれないけど、“今の時代を生きていく”というのは、かなり大変なことかもしれない。そこを3人でやってきたっていう、そういったことにもつながっていくのかな。
おかげさまで、『メリーアン』(83年6月21日発売)のリリース後、チャート誌にTOP10にずっと入っています。だから今の時代の中で、自分たちも生きていかなきゃいけないっていう、それが現役というところにつながり、自分たちを自然に“あの頃のまま”にしてくれるというか。まぁ、相変わらず3人でバカやってますからねぇ、そこは変わらない。
よく「ALFEEって、仲良いよね」って言われますけれど、自分たちでは仲が良いと思ったことはないですよ、それが普通だから。まぁ、お互い遠慮がないというのがもちろんあるし、ある程度リスペクトしている部分もあるし。そういったもののせめぎ合いなのかな。そこがうまくいっているのかもしれないですね。
――だからこそ、ソロ活動をやられているのですか?
ボクがなぜソロ活動をやるかというと、ALFEEでの場合は、ボクが制作部、DJの坂崎が宣伝部、歌う桜井が営業部って分担してるんです。営業と宣伝はある程度、日常の生活の中でまかなえるんですけど、制作部の場合はある程度、“井の中の蛙”状態でいるよりは、外から刺激を受けて、いろんな人とセッションしたりして、外部から刺激を受けると創作意欲がわきますからね。で、また、ALFEEに戻る。そのためのいわゆるソロ活動なんです。
だからALFEEを長持ちさせるために、ソロ活動は欠かせない。ボクの最初のソロアルバムはロンドンで2ヵ月ぐらいかけて単身で作ってきたんですけど、その手法をALFEEにまた取り入れて。だから、ボクら、コンピューターを入れたのは早かったんですよ。そういったことがボクは大好きなので、新しいことを先陣を切って導入していく係なのかもしれない。だからそれは続けていきます。
それから小説も。今まで書きたいと思っていて、書けないと思っていた自分がいるじゃないですか。それが書けて、出版した。本屋さんも好きでよく行くんですけど、本屋さんに自分の本が並んでいることがうれしいわけですよ。CDは今までたくさん出してるくせに、なんかね、すごくうれしいんですよ。1冊書けたということは、2冊目も書けるだろうと。こんな物語も書けるなぁとか、今までやってきた経験値を含めて、創作することが可能だなと思いました。だから次回作の構想は…ウフフ、なんとなくありますよ。
(写真:ユニバーサルミュージック提供)
【インタビュー後記】
高見沢さんにインタビューをさせていただくたびに思うのは、その姿勢のよさだ。いつも背筋がピンと伸びていて、崩れることはない。それはご本人がインタビューでおっしゃっていた“今を生きていなければしょうがない”につながっているように思う。「年だから」を言い訳にしない。常にアンテナが動いている。そして人生を楽しんでいる。それが年齢を超越できる方法なのかもしれない。
■高見沢俊彦
1973年、明治学院大学キャンパスで、桜井賢、坂崎幸之助と出会い「THE ALFEE」を結成。翌1974年8月25日、シングル『夏しぐれ』でデビュー。バンドでのライブ通算本数は2692本に達成し、なお更新中。Takamiyとして7月25日にニューシングル『薔薇と月と太陽〜The Legend of Versailles』をリリースし、ソロライブを9月1日、2日にパシフィコ横浜で開催。「高(実際は“はしごだか”)見澤俊彦」として、7月13日に文藝春秋から初の小説「音叉」を発売した。