異色の個性派軍団で甲子園沸かせた2000年の那覇高校。20年目の真実(後編)内紛、恩師との約束
2000年の甲子園を沸かせた1年後の夏。初戦で前年の決勝戦の相手だった沖縄水産に延長戦の末に雪辱されて2年連続出場は叶わなかった。左利きの捕手・長嶺勇也は、バックネット裏の客席から同期たちの最後の夏を見届けた。
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その年の秋、テレビ局が「甲子園を沸かせた那覇高校の今」を取材しに来た。
だが左利きの捕手だった長嶺ら数名の選手がグラウンドにいない。前年からのエースだった成底和亮はその疑問をディレクターから問われると「進学に力を入れるか、最後の夏まで野球をやり切るのか。彼らは今迷っていているんです」と答えた。
「進学校ゆえにできた嘘でしたね」と成底は振り返る。左利きの三塁手・金城佳晃も「僕にマイクが向けられたら学校への文句を言ってやろうと思っていました」と話す。
その後長嶺ら数名は最後の夏を前に既に退部。チームは内紛状態が続いた。
きっかけは選手から「池さん」と慕われ30歳の兄貴分的存在だった池村英樹監督の退任だった。甲子園に出る前の4月に、もともと沖縄水産で部長だった教諭が次期監督として赴任してきていた。それが、選手たち自身ですら想像がつかなかった甲子園に出場。その教諭に悪い印象は無かったが、1年生から池村の指導を受けていた成底、長嶺、金城ら甲子園出場時に2年生だった選手たちは「あと1年、池さんと一緒にやって今度は甲子園上位に」と願っていた。
だが、教員免許を持たない外部指導員という形だった池村の立場はあまり良くなかった。野球に没頭してしまうタイプでもあったし、監督就任の経緯もコーチをしていたところ選手から慕われるようになっていったからであったが、学校側からは「前の監督を追い出した」というように見られる向きもあったのではないかと語る関係者もいる。
「他に指導できる教諭がいないから外部指導員が監督」という理屈も、4月の人事異動で解消されていた。さすがに甲子園直後の退任にはしなかったが、秋の沖縄大会準決勝で宜野座に3対5と惜敗した後、池村は退任。宜野座はその後新設された21世紀枠で甲子園出場を果たし、4強入りと旋風を巻き起こす。
この試合、前の代のチームから攻守の中心だった長嶺が甲子園期間中の自打球での負傷が長引くなど主力の数名が欠場しており「万全の戦力が整っていれば俺たちも・・・」と手応えを感じていた。
また甲子園で敗れた育英戦では長嶺が「相手のレベルが違いました。特に栗山巧(西武)のスイングや2ストライクに追い込まれてからの選球眼が凄かったんです」と世代トップレベルも体感しただけに、燃え尽きるどころか、さらに意欲を燃やしていた。
新チームで主将になった長嶺を中心に何度も池村の続投を学校側にかけ合った。しかし、選手たちも一枚岩ではなかった。エースの成底は「僕は学校の方針には従うしかないと思っていました」と正直に打ち明けるように、選手対学校の対立は、いつしか選手たちの分裂にも繋がっていった。
池村は退任の際、選手たちに「絶対辞めるなよ」と伝えていた。だが、特に池村の信頼も厚かった長嶺は春季大会後に部を去った。残った金城も「大人の都合をどうしても感じてしまって、投げやりになっていました」と振り返る。
そしてその教諭が監督就任を躊躇うと、今度は池村と別のOBが監督としてやってきた。「ではなぜ池さんではダメなのか?」と選手たちの不満や複雑な思いが余計に高まった。
「甲子園はやはり特別な場所でした。行けると思ってなかったのに行けたら、今度はもう1度そこへ行きたいとの思いが強くなって、その分歯車が狂ってしまいました」(長嶺)
「みんなで一緒に野球をやりたい気持ちはありました。でも当時17、8歳なりの考えがそれぞれにあって、子供でしたからお互いの考えを引くこともできなくて」(成底)
「生活態度も悪くなったりもしました。“池さんがいなくなったらこんなに悪くなってしまうんだ”と思わせたいような気持ちで。今思えば子供じみた考えですが、当時は素直になれなかった。約束を守って残った僕らの中にも“池村さんの野球”は無かった。僕らは先輩たちにひたむきに取り組む姿勢をたくさん見せてもらいましたけど、僕らは後輩にそういう背中を見せられませんでした」(金城)
全員で最高の喜びを分かち合った仲間たちが、1年後に悔しさを分かち合うことはなかった。
那覇高校を追われた池村はその後、激動の人生を送る。退任から1年後に、本州の私学校に招聘され2002年から監督に就任。だが、2005年に部員への暴行や全裸でのランニングを強要したとして逮捕された。現在のその学校からは想像できないが当時は荒れており、非行に走る部員もいた。
その指導の際に手も出るようになり、全裸でのランニングも丘の上にある人目につかない場所であったために精神修養の意味合いあり事前に説明はしていた。そのように裁判で池村は陳述したとされるが、逮捕という現実に高校野球での居場所は無くなった。
その後は高校を中退してしまった球児たちのためのNPO法人で監督を務めるなどしたが、2014年に脳出血で43歳の短い生涯を閉じた。その葬儀には多くの教え子たちが集まり涙を流した。その中には本州の高校やNPO時代の教え子の姿もあり、今でも沖縄にある池村の墓に毎年のように家族でやってくるほどの者もいるという。
那覇高校の当時の選手たちは「鉄拳制裁をするようになったのは本州に行ってからではないか。僕らの頃は無かった」と口を揃える。それとは真逆に思える個性を伸ばす指導は前編の記事でも詳細に記したとおりだ。準備を大切にすることや「何事も考えて行動しろ」という教えは今も彼らそれぞれの仕事でも大いに生かされている。
金城が「いろんなことがありましたが、僕たちにとって恩師であることに変わりはありません」と話すと、他の面々も大きくうなずいた。
部員たちのわだかまりも時間の経過とともに消えた。
「何の集まりだったか詳しくは覚えてないんですけど、“これでもう仲直りな”って誰かが言って。それがすごく嬉しかったんですよね。“池さんにこれ報告しなきゃな”“今から野球したら強いかもなあ”って思ったことをすごく覚えています」(金城)
そして今も野球への愛は皆変わっていない。池村から野球の面白さを教えてもらったからだ。長嶺と金城は今も草野球を続け、子供も野球をしている。成底は沖縄国際大で最速148キロを投じてプロ注目の存在になり、沖縄電力でも投手とコーチそれぞれで全国大会出場を果たした。2歳の男の子は「なんでも投げてしまうので、野球はまだ教えないようにしています」と笑う。
それぞれが家族を持ち、気づけば当時30歳だった池村をはるかに超える37歳、38歳となった。
「もうあの時の池さんより7つも年上になったけど、まだまだ全然追いつけてはいません。野球以外にもたくさんの大切な教えが今も生きています」と長嶺。
多くのものを学び甲子園の舞台に立ち、甲子園に出たからこそバラバラになり苦しんだ個性派軍団の球児たちは今もなお、亡き恩師の教えを胸に野球と家族を愛する日々を送っていた。
文・写真=高木遊
当時の写真提供=成底和亮