人的資本とは人を引き付けて引き留める働く環境のことだ
人的資本を重視した経営においては、働く環境の整備が重要です。働く人に魅力のある環境は、人材を引き付ける力をもつばかりでなく、人材を引き留める力ももつからです。
人的資本とは何か
企業経営においては、働く人への報酬は、人件費という費用ではなくて、人材という資産への投資として考察されるべきだとされます。そこで、理論的には、人材は貸借対照表の資産側に載ることになって、反対の負債・資本側に対応科目が発生するわけで、それが人的資本、英語でいえばヒューマンキャピタル(human capital)なのです。もちろん、人材という資産も、人的資本も、現実には、見えるものとしては計上されていません。
ただし、報酬の全てが投資になるわけではなく、やはり、その多くは損益計算書上で処理される人件費なのですし、また、人材という資産の反対勘定には負債もあり得るわけです。そこで、人的資本の理論における重要な論点は、第一に、総報酬のうち、何が投資であり、何が費用なのかという分別であり、また、第二に、人材という資産の反対勘定を広義の人的資本と呼ぶとして、そのうちの何が負債であり、何が狭義の資本なのかという分別です。
退職金制度の意味
さて、退職給付債務は、既に貸借対照表に載っています。報酬には、支払い時期の違いに応じて、前払い、今払い、後払いの三種類があり得て、普通の人件費は今払い報酬、退職金制度は後払い報酬になります。後払い報酬は、未払いの人件費という負債なのであって、通常は、人への投資とは見做されません。しかし、企業として、後払いにすることによって、何らかの人事政策上の持続的効果を得ているのならば、そこに資産性が発生するのであって、この見えない資産に対応するものとして、見えない負債性の人的資本があるはずなのです。
あからさまにいえば、企業の自分勝手な論理としては、戦力となる人材の候補を引き付け、戦力と化した人材を引き留め、残念ながら戦力外となった人材を引き離す、このような人材の流れができるのが望ましいわけです。後払いは、このうちの人材の引き留めに効果があります。つまり、退職金は、単なる後払い報酬ではなくて、長く勤めるほど有利になるように設計されていることで、人材引き留めの効果を発揮するのです。
熟練と組織文化
そもそも、人材が戦力として育ってくるのは勤続を通じてなのですから、人材を引き留めることで人材が育ち、育った人材の価値は上昇し、価値の高い人材は引き留めなければならないという循環が働くのであって、この循環が好循環として機能している組織運営こそ、企業に固有の本源的な競争力なのです。
長期勤続によって、人材価値が上昇するのは熟練の効果であり、人材の集合としての組織の価値が上昇するのは、組織文化が醸成される効果です。組織に規律は不可欠ですが、規律を規則によって強制すれば、硬直的となり、硬直化した組織を変革しようとすれば、別の規則によって強制するほかないという悪循環を生じます。組織は、人が長く共に働くことによって醸成される自然な規律によってのみ、柔軟に自律的に自己変革し得るのであって、その空気のように見えない規律の体系こそ、真の組織文化なのです。
熟練や組織文化による統制は、生産性の向上につながる限り、必ず利益を創造しているのであって、また、熟練といい、文化といい、真似され得ないからこそ、企業の固有の競争力になるのであって、そこにも必ず競争優位の形成を通じた利益が発生しているのです。これらの利益こそ、人的資本の生み出す資本利潤です。
退職金制度の難点
退職金制度の難点は、第一に、人材を引き付ける効果に乏しいことであり、第二に、より深刻な問題として、全ての人材に一律に適用される制度なので、企業にとって引き離したい人材までも、引き留めてしまい、敢えて引き離したい人材を引き離そうとすれば、希望者を募り、割増し退職金を支給することになってしまうことです。現在では、退職金制度は、利点よりも、こうした欠点が問題視されて、次第に不人気になりつつあります。
しかし、退職金制度の難点に関係なく、人材の引き留めは人事政策上の重要課題なのです。伝統的な退職金制度は、社会環境の劇的な変化のなかで、熟練のもつ意味、働く人の意識、人々の協働の仕方などが根本的に変わることで、機能に障害を生じたにすぎないのであって、時代に即した新しい退職金の設計、もしくは退職金以外の後払いの仕組みが工夫されればいいわけです。
前払い報酬の意味
働く人への報酬には、対価としての意味に応じて、現在の貢献への対価、将来の貢献期待への対価、過去の貢献の再評価に対する対価の三種類があり得ます。このうち、過去の貢献の再評価に対する対価は、報酬決定方法における保守主義の結果なのであって、安定的な貢献を確認してから、事後的に貢献と報酬を一致させるために生じる短期的な後払いの報酬です。後払いといっても、退職金のような人事政策上の効果はなく、資産性はないはずです。
将来の貢献期待への対価は、報酬決定方法における積極主義の結果であって、事前に貢献の増大を予定して、将来の貢献を報酬に反映させる前払い報酬です。この期待貢献への報酬は、会計上は、人件費として処理されますが、理論的には、前払い費用としての資産性がありますから、この見えない資産に対応するものとして、見えない人的資本があるはずなのです。
前払いという人的資本の資本利潤
企業としては、事前に期待への報酬を前払いし、事後的に期待通りの貢献を得られたとしても、人件費に見合った貢献を得ただけで、人的資本としての意味をなしません。つまり、企業の立場からいえば、前払いを人的資本として機能させるためには、期待以上の貢献を働く人から引き出す必要があり、働く人の立場からいえば、期待以上の貢献をするように、動機付けられなくてはならないわけです。
この働く人への動機付けの工夫に企業の人事政策の要諦があるわけですが、要は、働く人と企業との共通価値の創造が論点なのであって、期待以上の貢献によって創造された付加価値は、企業と働く人との間で共有されて、一部は企業の利益となり、残りは働く人への報酬になるべきなのです。これを働く人の視点からみれば、自分自身が人的資本なのであり、真に働くことは、自分という人的資本の価値を高めて、そこから資本利潤を得ることになるわけです。
人的資本としての人材育成費
人材育成費用は、会計上は、費用として処理されますが、人材価値を高める持続的効果がある限り、資産性があるのであって、反対勘定に人的資本を創造するはずです。実際、一般的に人材への投資といわれるときには、貢献期待への報酬に加えて、人材育成費用の支出を意味しているわけです。もっとも、育成という言葉は企業を主体とするものですから、働く人を主体にして、人材成長支援費、あるいは人材の自律的成長を促す働く環境の整備費というほうがいいでしょう。
この働く環境整備費は、それに対応した一時的な効果をあげるだけでは、単なる費用なのであって、人的資本になるためには、人材価値の上昇に関して、効力を持続的に発生させなければならないのです。そして、この持続的効力が人的資本の資本利潤になるわけですが、効力が持続的であるのは、働く環境が働く人に創意工夫へ向けた刺激を常に与えるからで、そのような創造を生む環境の構築こそ、人的資本に着目した経営の要諦なのです。
働く環境の意味
人は、自己の人材価値を高めるように自律的に行動するとき、自分の能力を最大限に発揮できる環境を選択するはずです。これを企業の立場からみれば、人的資本を重視した経営における課題は、働く人にとって魅力のある環境を整備することになりますが、働く人に魅力のある環境は、人材を引き付ける力をもつばかりではなく、人材を引き留める力ももつ点が重要なのです。