保守派が抱いた安倍政権への「夢」の結末~保守派は総理に裏切られたのか?~
思えば第二次安倍政権が誕生した2012年12月末、私はまだ20代だった。当時の私はようやく著作を数冊出した程度で、保守・右派界隈に頻繁に出入りし地歩を固めていた最中である。安倍政権の7年8か月は、まさに私が保守として界隈に身を置き、その動静を身をもって感じてきた年月と軌を一にしている。
安倍政権の7年8か月の間、保守派は安倍政権に一方的ともいえる「夢」を抱き続けた。そして結果として、その「夢」の多くは黙殺されるか、はたまた無残にも全く実現しえない「夢想」に終わった。しかし他方、安倍政権は保守派が自分たちに向けた一方的な「夢」の少なくない部分が、実際に実現するかも知れないし、例え実現しなくとも根本的には保守派の味方である、という絶妙なポージングを取り続けることによって、最後まで保守派からの支持を取り付け続けることに成功した。
保守派が安倍政権の7年8か月の間、抱いた「夢」とは何だったのか。そしてその「夢」の結末は如何なるものだったのだろうか。
1】”竹島の日”式典の政府主催と尖閣諸島公務員常駐政策の反故
2009年に麻生太郎率いる自民党が下野し、民主党に政権が交代し、鳩山・管・野田の三民主党内閣が続いた2012年12月まで、特に保守派は2010年9月(菅政権下)で起こった尖閣諸島沖漁船衝突事件をめぐる政府の対応(海保艦艇に衝突した中国漁船の船長を釈放)に、はらわたが煮えくり返る思いであった。この時、菅政権の対応を「手ぬるい」と感じた保守派は大同団結し、首都圏や関西圏で大規模な抗議行動を展開。最盛期には6000人もの参加者が集結した(私もそこにいた一人であった)。
菅政権が終わり、野田内閣に交代してもこの憤怒は収まらなかったが、2012年に入っていよいよ解散風が強まり、同年9月の自民党総裁選で安倍晋三と石破茂が対決すると、安倍は「尖閣諸島への公務員常駐を検討する」と発言。これに対し保守派は沸き返り、一挙に安倍総裁待望論が過熱した。事実総裁選で安倍が石破を破り総裁となったあとも、自民党は同年の衆院選に際して「総合政策集」の中で「島を守るための公務員の常駐を検討」と明記した。
しかし実際に衆院選を制し第二次安倍内閣が誕生するとこういった強硬路線はトーンダウンし、2017年の衆院予算委員会で安倍総理は「現在はその選択肢はとっていない」として事実上自らの発言を撤回した。
一方、同じく2012年の衆院選「総合政策集」の中に明記された「竹島の日(毎年2月22日)政府主催の式典実施」は、安倍政権が誕生してすぐの2012年12月に「2013年度の政府主催の式典実施は見送る」として撤回、これを反故にした。「竹島の日政府主催の式典実施」は、対韓強硬策の目玉として保守派が安倍政権に期待したひとつだった。
これら二つの保守派による要請は、安倍政権開始劈頭にして裏切られる格好となったが、「自民党が政権を奪還したことで十分であるとするべきで、現実的には無理なのは仕方がない」として保守派の落胆はそこまで深刻ではなかった。しかしこの落胆は、次々と保守派が安倍政権に抱いた「夢」が夢想に終わる端緒に過ぎなかったのである。
2】1度きりで終わった安倍総理による靖国神社参拝とアメリカへの屈服
保守派にとって、宰相に期待する最も重要な政治的姿勢の核となるのが総理大臣としての靖国神社参拝が為されるかどうかである。2001年に森内閣の後に旋風を巻き起こして登場した小泉政権(~2006年)が、その任期中、保守派から喝さいを浴びた最大の理由のひとつは、小泉自身による6度にわたる靖国参拝であった。
保守派は先の大戦を「大東亜戦争」と呼称し、「大東亜戦争は自衛のための戦いであって、アジア解放のための聖戦であった」とする歴史観(これを遊就館思想とも呼ぶ)が根強い。よって靖国に祭られる戦没者等を「英霊」と呼称し、ここに対する参拝の是非を「保守の政治家であるか否か」を決める一種のリトマス試験紙としているきらいがある。
安倍総理は政権発足から約1年後の2013年12月、靖国神社を電撃参拝した。これによって保守派の安倍支持は決定的に盤石なものとなった。当時保守派の一部は「安倍総理の参拝が8月15日に行われるのが望ましい」として12月の参拝では不足とする声もあったが、「とにもかくにも総理が靖国を訪れた」という一点を以て留飲を下げた。しかし、安倍総理の靖国神社参拝はこれ一度きりであった。
むろん、安倍総理はその後、靖国を参拝しないまでも「内閣総理大臣 安倍晋三」の名前で例大祭に真榊(まさかき=供え物)を奉納。その他にも「自民党総裁 安倍晋三」の名で私費で玉串料を納めている。が、その任期約5年の小泉が6回の靖国参拝に対して安倍総理は1回であった。しかし民主党政権下の三内閣はもとより、第一次安倍、福田、麻生内閣でも首相としての靖国参拝は各内閣が約1年の短命だったという点もあり行われず、2013年の安倍総理による参拝は小泉以来実に約7年ぶりであったので、保守派は「やはり安倍は真の保守の政治家である」として沸き返った。
1度きりの安倍総理による靖国参拝が、その後も継続しなかった最大の理由は何か。駐日アメリカ大使館並びにアメリカ国務省がこの時の安倍総理の参拝に「失望した」という強い表現での批判を行ったことに尽きる。靖国神社への総理参拝は、戦勝国であるアメリカにとっては太平洋戦争の開戦理屈を正当化する保守派の歴史観をトレースするもので、第二次大戦後の国際秩序への挑戦であり、到底受け入れがたい。
「失望した」という異例の強い表現がアメリカから浴びせられたことに驚いた安倍政権は、以後総理による靖国参拝を封印した。安倍総理の言った「戦後レジームからの脱却」とは、「対米追従からの脱却」を含むと当初は理解されていたが、実際には安倍政権は政権発足1年をしてアメリカの批判に屈していた。しかしこの事実は、「7年ぶりの靖国参拝」という保守派からすれば壮挙によって、正に「見て見ぬふり」が行われた。そしてこの不条理を有耶無耶にしたまま、ついに安倍総理は、保守派の念願である「8月15日の靖国参拝」を一度も行うことなく幕を閉じるのである。
3】河野・村山談話の破棄という「夢」と戦後70年談話の「裏切り」
第一次安倍政権が約1年の短命で終わった後、安倍は衆議院議員として保守系雑誌への寄稿や自著出版、紙上対談に余念がなかった。そこでは安倍自身の強い保守的歴史観―つまり先の大戦が決して侵略的性質を帯びたものばかりではないこと―がたびたび登場した。よって第二次安倍政権が誕生すると、保守派は彼らが最も仇敵とする過去の政権における歴史認識、つまり河野・村山談話の破棄を安倍政権に熱望することになる。
河野談話は、宮沢内閣下の1993年8月4日に、内閣官房長官であった河野洋平による政府公式見解である。要点を抜粋すると、
というもので、日本政府が、日本軍の関与のもと慰安所を設置し、従軍慰安婦の女性たちの名誉と尊厳を傷つけたことを認め、反省したもので、歴史的事実に照らし合わせれば妥当な見解である。しかしこの河野談話は、発表以降、保守派が一貫して「破棄するべき」としてその集中攻撃の照準に合わせてきた憎むべき談話であった。
保守派による従軍慰安婦に対する歴史観は、ゼロ年代以降、ネット右翼が台頭してくるとますます対韓強硬路線のひとつとして増強され、保守派は「従軍慰安婦」という呼称自体を嫌い、中には「追軍売春婦」と呼び変える向きも出てきた。さらに2010年代に入ると保守系の歴史修正的動きの中から「慰安婦は軍から高い給料を貰っていたに過ぎず、日本が彼女たちに謝罪する必要はない」とする言説が広がり、「慰安婦は存在しない」といったトンデモ論まで登場した。
この強い歴史修正的な流れで批判されたのが、当時千葉県在住であったライターの吉田清治による「済州島における日本軍の慰安婦強制連行」証言を紙面に複数回掲載した朝日新聞である。吉田の証言は当初から、歴史学者の秦郁彦らの現地調査によって強く否定されていたが、2014年9月になってようやく朝日新聞は吉田の証言を虚言と認め、過去の記事の訂正・取り消し措置と、謝罪会見が行われた。このことに、従前から朝日新聞が進歩的であるとして批判の対象としてきた保守派は、ますます朝日新聞攻撃を苛烈にし、「吉田の証言が嘘であるから従軍慰安婦の存在も嘘である」として、河野談話の破棄を強く求めたのである。
実際のところ、確かに吉田の証言はでっち上げであった。しかし従軍慰安婦は歴史的事実として存在し、「婦女子をトラックに無理やり詰め込んで従軍慰安婦にした」という狭義の強制連行は無いまでも、前掲河野談話の通り日本軍が関与した「広義の強制」は存在した。保守派はこのような歴史的事実を整理しないまま(―秦郁彦の現地調査は吉田証言を否定したもので、慰安婦の存在を否定したものではなかった)河野談話の全面破棄を安倍政権に切望したのである。
一方、河野談話と共に保守派の「仇敵」としてやり玉に挙げられる談話は1995年8月15日に、戦後50年を期して当時の村山富市総理大臣が発した村山談話である。以下、要点を抜粋すると、
というものである。これの何が問題なのかと言えば、先の大戦を「自衛のための戦争であって、アジア解放のための聖戦」と位置付ける保守派からすれば、「植民地支配と侵略」という言葉が総理談話として公に示されたことへの何よりの憤怒である。従前から保守派の多くは、特に日本の朝鮮支配を「植民地統治ではない」と主張し、その理由として「朝鮮併合は合法的に行われたもので、その統治期間に朝鮮のインフラは劇的に整備され人口が増えた」とした。そして太平洋戦争における南方地域への攻撃・占領は侵略戦争ではなく「アジア解放」であると規定したから、当然村山談話はこれとは真逆の歴史観となり、これまた全面破棄を求めたのである。
現実には、フランスによるアルジェリア併合やアメリカによるフィリピン統治も当時の法に従えば合法的に行われ、学校・病院・鉄道・道路・電信などのインフラは劇的に向上した。英領マレーや仏領ハイチ、そして英領インドでも植民地統治時代に人口は増加しており、これを以て「日本だけが植民地統治を行っていない」とする歴史観は詭弁である。また真珠湾攻撃と同時に開始された日本軍の南方地域への攻撃と占領によって特にフィリピンやインドシナ(日米開戦前に進駐)では抗日ゲリラが跋扈し、日本の支配に対抗したのだから歴とした侵略であるが、またしても保守派はこういった歴史的事実の整理を行わないで村山談話を唾棄すべき攻撃対象とした。
では、安倍政権はこのような保守派の河野・村山談話破棄という「夢」に対してどう答えたのか。安倍政権は2014年に「河野談話作成過程等に関する検討チーム」を設立して、特に1993年の河野談話の制作過程を検証した。その結果、韓国側との水面下での協議の事実が明らかにされたが、検討チームの検証結果が出る前の段階で、安倍総理は2014年3月に「安倍内閣で(河野談話を)見直すことは考えていない」と明言し、河野談話の継承を明言した。2014年6月には検証チームによる結果が公に発表された。そこでは、
とあり、保守派の河野談話破棄の「夢」は完全に裏切られた。村山談話については、河野談話と違って検証すら行われることはなかった。その結果、戦後70年談話として2015年8月14日に安倍総理が発した談話は、以下の通りである。
保守派が安倍政権に託した河野・村山談話の破棄という「夢」は、完全に裏切られ、むしろ補強され、安倍政権で継承されるに至ったのである。そして当然安倍内閣は河野談話を継承するので、従軍慰安婦への謝罪と賠償を前提とした日韓合意が、朴槿恵政権との間で合意された(文政権後に、この合意は事実上形骸化した)。
保守派は河野・村山談話を継承する安倍政権に対し失望し、特に日韓合意については「従軍慰安婦は存在しない」とする保守派の立場と真逆であったので、強い不満が沸き起こった。しかしこういった一時の失望や不満は、すぐに鎮静化され保守派による安倍政権への一方的な「夢」は継続されることになる。その理由は後述する。
4】憲法改正という「夢」と完全挫折
第一次安倍政権時代から安倍総理自身が公言したように、憲法改正は保守派の悲願であり一丁目一番地であった。第二次安倍政権でも憲法改正への強い動きは見られ、保守派はこのような安倍政権の動きこそ「ついに保守の悲願であり、戦後日本の宿痾である憲法9条改正の本丸に入った」と躍動した。何より保守派は、「憲法9条のある限り日本は滅ぶ」とまで盛んにぶってきた過去がある。
第一次安倍政権では憲法改正の実際の手続きを定めた国民投票法を成立(2007年)させていたので、第二次安倍政権ではいよいよ憲法9条改正への期待が急速に高まった。いやむしろ、前述した”竹島の日政府主催””尖閣諸島公務員常駐”や”河野・村山談話の破棄(見直し)”よりも、憲法9条改正さえ達成できれば、これら保守派の一方的な「夢」が実現しえないでも、この「本丸」さえクリアーすれば安倍政権は「全く100点満点」とする者が多かったのである。
第二次安倍政権では、憲法改正に慎重姿勢を崩さない公明党への配慮から、まず「本丸」である憲法9条改正ではなく、日本国憲法の改正手続きを定めた第96条の改正機運が政権発足後にわかに高まった。憲法96条は「衆・参それぞれ2/3以上の賛成」で以て改憲発議ができると規定しており、保守派はこれを「GHQによって日本に押し付けられた永遠の呪縛=硬性憲法」として捉えた(―実際には、両院2/3以上の賛成で改憲発議できるのはドイツ基本法も、上・下両院の2/3分の賛成で発議し、全州議会の3/4以上の承認が必要なアメリカ合衆国憲法でも変わらない)。
しかしこの第96条改正機運はたちまちトーンダウンした。これはまさしく保守派へのブーメランで、憲法改正要件を緩和すると、それまで呪詛の対象としていた民主党などの野党が政権を奪還するとすれば、保守派にとって「都合の悪い」憲法改正をも許容することになりかねないからである。法曹界からもこの動きは大反対された。そこで第二次安倍政権では、憲法9条改正を半ば断念し「実利」を取る方針に転換した。
具体的には、歴代内閣が「その権利はあるが現行憲法下では認められない」とした集団的自衛権の行使に関する解釈変更を2014年7月に閣議決定し、翌2015年9月にはいわゆる「安保関連法」が成立した。ここにあっては世論を巻き込んだ賛否が起こったが、結果的に安倍政権は、憲法9条改正という「本丸」に手をつないまま、実質的には憲法の改正を解釈によって改憲する道を選んだ。
北朝鮮の弾道ミサイル発射(テポドン・ショック)や拉致問題が沸き起こった1990年代後半から、「9.11」テロを経た小泉政権にかけてのゼロ年代中盤、世論における改憲機運は最高潮を迎えた。新聞各社等の世論調査では、「改憲派」が「護憲派」を上回る調査も出された。しかし2014年~2015年における安倍政権下での集団的自衛権の行使容認と関連法の成立によって「憲法を改正しなくても集団的自衛権は行使できる」という事態になり、それはすなわち「わざわざ9条の改正に進むことはない」という当然の結果を招き(これは私が指摘した通り「憲法改正が絶対不可能なこれだけの理由」)改憲世論はトーンダウンする。2015年の安保関連法成立以降、世論調査では一貫して改憲機運は盛り下がり、「護憲」姿勢が優勢となっている。
第二次安倍政権が誕生して翌年の2013年の参院選では、自民党が参議院改選議席を制し、衆参の「ねじれ現象」が解消された。更に2016年7月、2019年7月の参議院選挙でも自民党は改選議席でほぼ勝利したが、参議院での改憲勢力2/3にはあと一歩届かない情勢であった。安倍政権の憲法改正の頓挫は、直接的にはこの参議院の改憲勢力2/3未獲得であった。もとより参議院は半数ごとに改選する中選挙区と全国比例方式のため、衆議院のような圧倒的な勝利は起こりにくい構造である。保守派からは改憲にとって障壁となり続けた参議院を廃止し、一院制にするという論も飛び出していたが、自らが呪詛し続けた民主党時代は逆に参議院で民主党が敗北することにより民主党政権がレームダック化したので、「参院不要論」は立ち消えとなった。
このような情勢の中、安倍政権は公明党の「加憲」の姿勢を尊重し、憲法9条に「自衛隊の存在を明記」する方針を明言した。しかしこれは保守派の本命とした、憲法9条2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない」を削除ないし改正するという「本丸」ではなく、これに追加という妥協案であった。しかしながら「憲法に全く手を付けないよりはマシ」という理由で、自民党改憲案は保守派の支持と「夢」を集めた。
結果、7年8か月に及んだ安倍政権下では、この「本丸」は全く、一文字も変えられないまま終わった。直接的な理由は参議院での改憲勢力2/3獲得の未達成だが、その背景は従来から保守派が口を酸っぱくして叫んできた「憲法を改正しないと、日本は集団的自衛権すら行使できない」とする主張を、安倍政権が解釈改憲でやすやすと達成したからである。
こうなってくると、憲法9条改正という保守派の一丁目一番地とした「夢」に対し、安倍総理が最初から素直に応諾する気持ちがあったのか疑わしい。実際には参議院が障壁となって改憲発議ですら無理だというのは分かりきったことだったので、それならば「実利」を取るということで憲法改正を行わないまま集団的自衛権の行使を解釈変更したのである。
しかし安倍総理個人が第一次でも、また自民党下野時代からも強烈に発し続けた憲法改正という「夢」は、「他のことが全部だめでも憲法改正さえ達成すればよし」とする保守派に恒常的に「夢」を提供し、最後の最後まで安倍政権を支持する余地を与え続けたのである。
5】「夢」破れて山河も無し
こうしてみてみると、保守派が一方的に安倍政権に対して期待し、抱いた「夢」は、ほかならぬ安倍総理自身の手によってことごとく反故にされ、夢想に終わった。しかし保守派は、多少の振幅はあっても最後の最後まで安倍政権支持を崩すことはなかった。辞任表明を受け、早くも保守界隈では「第三次安倍政権待望」や、「病気療養後の院政」を望む声まである。
自らの託した「夢」がことごとく「裏切られて」も保守派が安倍政権を思慕し続けた理由とは何か。それは安倍総理個人が時折見せる保守派へのリップサービスの存在であったことに他ならない。
2015年2月19日、衆院予算委員会で安倍総理は民主党議員の質問中に「日教組!日教組!」とヤジを飛ばし委員長から制止された。この総理による前代未聞のヤジは大きなニュースになったが、保守派にとっては日教組は朝日新聞と並んで「反日勢力」の中核をなす「仇敵」であり、仮に単なるヤジだとしても「安倍総理はやはり保守派の味方である」との印象を与えるには十分なものであった。
また、2017年7月、東京都議選において自民党議員の応援に立った安倍総理に「安倍やめろ!」のコールが飛ぶと、安倍総理は「こんな人たちに負けるわけにはいかないんです」と演説中にぶってこちらもまた大きなニュースになった。ここでいう「こんな人たち」とは、直接的には「安倍やめろ!」コールをした人々のことをさすが、保守派からすれば「こんな人たち」というのは、「憲法改正や中・韓強硬姿勢に反対する反日勢力」とすぐに変換され、またしても「安倍総理はやはり保守派の味方である」と留飲を下げる格好になった。
安倍政権下での保守派へのリップサービスは、2017年10月の衆議院選挙でますます旺盛になる。それまでみんなの党→維新→次世代の党として代議士を務め、2014年衆院選で落選した杉田水脈を衆院中国比例ブロックで17位として公認、当選させた。杉田は下野時代、主に韓国の市民団体がアメリカ等で設置した慰安婦像の撤回を強く主張し、ネット右翼から極めて強い支持を受けた人物であった。
これ以外にも、おおむね2015年~2017年前後に、ネット右翼から強い支持と熱狂的支援を受けていた旧次世代の党の所属議員を自民党に復党させる動きがみられた。平沼赳夫(衆・2015年)、園田博之(衆・2015年)の復党を筆頭に、山田宏(参・2016年)、和田政宗(参・2017年)などが代表格である。こうした人々はすべて旧次世代の党出身者であり、第二次安倍政権が誕生すると次世代の党議員として「自民党より右」を標榜し、基本的には野党議員であった。
結果としてこうした「自民党より右」の議員を次々と復党させたり公認させたりすることで、安倍政権の保守路線はその政権中盤以降、きわめて色濃いものになっていった。そしてこうした「自民党より右」の議員らは、彼らに水平的につながる保守派や保守界隈、ネット右翼に強い影響を与え、また強烈な支持を受け続けることによって、保守派の留飲を下げることにつながった。
また閣僚人事においても、例えば稲田朋美を防衛大臣に抜擢することにより保守派の支持はゆるぎなく補強された。稲田は元来、日中戦争における「日本軍将兵の100人斬り」はでっち上げであるとして裁判を起こし、完全に負けたものの、その行為は愛国的であるとして保守論壇に登場し、保守派からは気鋭の女性論客(弁護士)として認知された。
稲田の代議士としての初当選は小泉時代(福井1区)だが、第二次安倍政権では防衛相の要職にまで重用されるに至った。稲田は先の大戦を「自衛のための戦いで侵略戦争ではなかった」とする保守派の歴史修正的な価値観をトレースしている。第二次安倍政権によって河野・村山談話が破棄されないばかりか、それを継承するという方針になっても、こういった保守派にウケの良い議員を重用することで、保守派には「安倍総理はやはり保守派の味方である」と納得させ、安心させる材料となった。
それ以外でも、2017年の衆院選大勝以来、沖縄の反基地活動家を「中国の工作員」と批判する在沖の女性活動家らとインターネット番組で共演するなどした。これは2018年の正月におけるネット番組「言論テレビ」に於いてであり、この番組を主催する会社の取締役会長は保守派の重鎮である櫻井よしこで、この日の番組には櫻井も出席している。安倍総理の「保守系民間番組や雑誌」への登場は政権後半にかけてますます旺盛となり、保守系雑誌の『HANADA』にも総理インタビューがたびたび掲載されるに至る。またコロナ禍の対応で、これまた保守派の重鎮である百田尚樹らから批判を浴びると、2020年2月28日、安倍総理は総理公邸で百田らと会食をしている。
このような状況には些末な事例もあるが、常に保守派に向けてのリップサービスの一環として行われた。第二次安倍政権では縷々述べたように保守派が政権発足以前から一方的に期待する「夢」に対し全く応えてこなかったが、彼らを繋ぎとめるための総理個人の「顔見せ」的登場や言動が、常に、そして最後まで「安倍総理はやはり保守派の味方である」という安倍擁護最大の切り札として提供され続けた。
6】保守派は騙されたのか?
そして保守派では、安倍総理から指示を受けたわけでもないのに、保守派の「夢」と政権が相反することを行うと、必ず「君側の奸」理論を持ち出して第二次安倍政権全期にわたってこれを擁護するという方針を採用した。「君側の奸」とは、君主は英邁で慈悲深いが、その側近が君主の行動を邪魔して善政を妨げている―という発想で、1936年の「2.26事件」の際、決起した陸軍皇道派の青年将校らがクーデターを正当化するために用いた理屈である。
昭和天皇は民草の窮状を案じておられるが、天皇の側近である重臣やそれにつながる財閥が邪魔をしているので、これを排除するというのが彼らの理屈で、実際、皇道派のスローガンは「尊皇討奸(そんのうとうかん)」であった。しかしクーデターになりよりも怒ったのは昭和天皇自身であって、「君側の奸」理論は彼らの一方的な妄想に過ぎなかった。
通常であれば、保守派の「夢」にほとんど応えていない安倍政権に対する当然至極の結果として沸き起こる批判は、すべてこの「君側の奸」理論によって封じられた。例えば二度にわたる消費税増税の際、保守派は増税の首魁が財務省の木下財務事務次官(当時)であると根拠不明なレッテルを張り、徹底的なネガティブキャンペーンをネット上で行ったが、実際に二度の消費増税を政治決断したのは安倍総理自身である。
安倍総理が保守派の「夢」と違うことを行うと、その責任を総理ではなく「君側の奸」にもっていくというやり方は、第二次安倍政権全期を通じてあらゆる局面で見られた。そしてこの「君側の奸」として批判の対象となったのは、「親中派」とされる二階幹事長や、石破茂だった。「後ろから弾を打つ」として、安倍総理の足を引っ張っている、という批判である。しかし例えば石破は安倍総理よりもはるかに保守の本命に近い「9条2項」の改正を唱えた。そもそも石破は第二次安倍政権で安倍総理自らが任命して閣僚(地方創生)を任ぜられており、内閣に協力した。「後ろから弾を打つ」というのが単なるプロパガンダに近いものだというのがわかる。
「君側の奸」という理屈は、逆説的には側近や重臣に篭絡されるほど安倍総理の決断力や政治力が不足しているという事であり、かえって自らが安倍総理の政治力を貶めている理論になるが、保守派の多くはこのような矛盾を無視し、妄信的な安倍擁護と支持を継続した。
2019年ごろから、従来安倍政権を擁護してきた保守派に「反安倍」を鮮明にする者が現れ始めたが、政権発足後7年以上を経てようやく「保守派の夢に安倍政権はまったく応えていない」という現実を認識するになったとすればすべてが手遅れである。とりわけ反共の保守派が対ソ批判として唱えてきた北方領土4島全面返還は、2島返還に後退してもなお、全く解決できないまま終わった。このことに対しても、「ロシアより韓国のほうが許せない」というネット右翼や保守派の感情が優先され、おおむね見なかったことにされている。
逆に言えば、「保守派の夢にまったく応えていない」という状況を7年以上続けてもなお、保守派からの支持を失なわなかった第二次安倍政権の「保守派操縦術」は、相当な技量であったと評価しても差し支えない。保守派はこの7年8か月間、安倍総理に騙されていたのだろうか?いみじくも安倍総理が辞任表明で、「(第二次安倍政権の評価は)歴史が決める」と言ったように、このこともそう遠くない将来、歴史が証明することになるのではないか。(了)