5歳の時に一緒にいた「八路軍のお兄さん」は毛沢東の外交秘書になっていた
1946年、長春の市街戦で流れ弾を受けた私を慰めてくれた八路軍の趙兄さんは、のちに毛沢東の外交秘書になっていた。彼が誰なのかを知りたがっていた私を取材して人民日報海外版が尋ね人記事を全世界に出したこともある。
その人は、日中国交正常化に尽力したことを、最近になって知った。
◆流れ弾による負傷と八路軍の「趙兄さん」
1945年8月、日本敗戦間近の長春にソ連軍が侵攻してきて軍政を布(し)いた。そのとき同時に現地即製の雑軍で、国民党軍系列の「中央軍」が、ソ連の軍政の下で共存していた。
ソ連軍は1946年2月頃になると北に向かって引き揚げていったが、申し合わせたように、「八路軍」と一般に呼ばれていた中国共産党軍が長春を国民党軍から奪還しようと、同年4月に市街戦をしかけてきた。
その流れ弾が腕に当たり、私は負傷した。
現地即製の中央軍は弱く、長春に八路軍が入城してきた。
人民のものは針一本奪わないと言われた八路軍だが、現実は大違い。
寝る場所と食事を提供して欲しいと願い出てきた八路軍の一団を我が家に泊めて、最高級の緞子(どんす)の布団を用意し、お風呂と食事を提供したのだが、翌朝引き揚げて行った彼らが泊まった部屋を見て、母は泣き出してしまった。
全ての部屋に敷いた緞子の布団の上には彼らの大小便があり、家に備蓄してあった缶詰などの全ての食糧品は一つ残らず持っていかれたのだ(詳細は『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』p.57)。
そんなこともあり、入城してきた八路軍のトップであった林楓(長春市書記)は、一番弟子の「趙」という名の若い八路軍を我が家に派遣した。私たちは彼のことを「趙兄さん(趙大哥)」と呼んだ。
趙兄さんは日本語ができた。
八路軍の流れ弾で負傷した私を「革命のために血を流したのだから、仲間だ」と言い、「だから、あなたは小英雄なのだ」と慰めてくれた。しかし紅旗の「紅い色」は「人民の血によって染められている」と説明し、あの「紅い色」の中には「あなたの血も流れている」という言葉にはギョッとした。
「毛沢東、知ってるか?」とも聞いた。知らないと答えると、「陽が東から昇るように、毛沢東が必ず高く輝いて人民を幸せにしてくれる」と言った(『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』p.59-63)。
趙兄さんは5月になると林楓とともに北に消え、1947年晩秋から長春の食糧封鎖が始まった。
長春を包囲しているのは八路軍だ。
餓死者が続出する中、1948年9月20日に長春を脱出して「チャーズ(卡子)」の門をくぐった。「チャーズ」とは長春を包囲している鉄条網に設けられた解放区(共産党軍=中国人民解放軍が占拠している区域)への出口だ。チャーズの中は餓死体で埋め尽くされ、私は餓死体の上で野宿した。
このとき、「趙兄さんの嘘つき!」と思ったことを『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』のp.147に書いた。
しかし、あまりの恐怖に記憶喪失になり、身障者にもなって、難民としてたどり着いた北朝鮮との国境の街・延吉で虐められ、朝鮮戦争で天津に移り、天津の中国人の小学校でも虐められて入水自殺を図った私にとって、共産党は恐怖の対象であったと同時に、5歳の私を「小英雄」として讃えてくれた「趙兄さん」を、心のどこかで「探していた」自分がいた。
◆「人民日報」海外版に「尋ね人」記事
1994年になり、ようやくチャーズの跡を確認する勇気を持つことができた。チャーズに入った9月20日に合わせて行った時に見た絶望的光景に関しては、6月30日にコラム<「チャーズ」の跡はどうなっているか? 抹殺された長春のジェノサイド>に書いた通りだ。
「チャーズの跡を確認する」という心理的バリアを乗り越えた私は、その勢いで、1948年当時、長春を包囲していた共産党軍(八路軍のちの中国人民解放軍)の生存者を取材することに着手し始めていた。鉄条網の周りを守備していたのは朝鮮人八路で、その人たちは朝鮮戦争で北朝鮮に送られ、金日成によってほとんど粛清されてしまったが、長春解放の時に長春に入った八路軍兵士に巡り会うことができた。
取材の中で私が「趙兄さん」に関して触れ、「趙兄さん」が誰だったのかを凄く知りたいと思ってきたことを話すと、話が相当に美化された形ではあったが、最終的には中国共産党の機関紙「人民日報」の海外版に「尋ね人」の形で「趙兄さん」の記事が載った。
以下に示すのがその時の記事である。書いたのは中国人民解放軍関係の記者で、記者には、「趙兄さん」が判定できるように、「趙兄さん」と話をした頃の5歳の私の写真を提供した。
記事では、趙兄さん(趙大哥)がなぜか「恩人」になっていて、解放軍(中国共産党軍)の「恩人」が食糧封鎖された長春から私たち一家を助け出してくれたことになっている。私が送ったとするFAXの内容もかなり違っている。
一体どうやれば、そのような「事実無根」の美談が出来上がるのかと唖然としたが、まあ、厚意で探してくれているのだから文句は言えない。
このときアメリカやカナダあるいはフランスにいる華人華僑から多くの便りが寄せられた。「趙兄さん」が誰であるかはわからなかったが、1999年に趙安博氏が逝去した時に、「尋ね人」記事を知っていた或る人が、「ひょっとしたら、趙安博かもしれないので、その娘さんが中国政府機関で働いているから、そこに電話してみたら?」と言ってくれた。
彼女に電話すると、「全く知らない」と言う。
ただ、自分たちは1946年辺りの父のことなど何も知らないので(そもそも自分はまだ生まれていなかったので)、良かったらもっと詳しいことを教えてくれないかと、逆に質問されたことがある。
◆「趙兄さん」は、のちに毛沢東の外交秘書をしていた趙安博だった
その後、執筆や日々の雑用に忙殺されていたのだが、2016年に『毛沢東 日本軍と共謀した男』を執筆する過程で、趙安博が1945年10月に長春にあった満映(満州映画協会)の接収作業に当たっていたことを知った(ちなみにチャーズは、この満映跡のすぐ近くにあった)。日本敗戦後は長春など東北一帯で日僑管理委員会の仕事にも従事していたこともわかった。
つい最近になって、『わが青春の日本』(1982年、東方書店)のp.175-186に趙安博の旧制一高(東京大学)時代に関する手記があるのも発見した。
そこに載っている一高時代(1937年頃)の写真は、まぎれもない、1946年4月から5月まで私と一緒にいた、あの「趙兄さん」の顔だった。
趙安博はのちに毛沢東の日本語通訳の担当者の一人となり「中国共産党中央外事工作部秘書長」という肩書を持つに至っている。
つまり、5歳の私と一緒にいた「趙兄さん」は、毛沢東の外交業務の秘書をしていたことになる。
◆日中国交正常化に尽力
なんとも複雑な気持ちになるのは、趙安博は廖承志らとともに、日中国交正常化に尽力していたということだ。この二人は、毛沢東の日本語通訳を担当しており、毛沢東は「日本軍と共謀した」だけあって、日本の「中国進攻」に感謝していたので、日本語通訳関係者を文化大革命の時も守っている。そのために二人とも生き延び、田中角栄元総理訪中の時も、大いに活躍している。
中国共産党に対する嫌悪と恐怖は、餓死体の上で野宿した実体験と、「趙兄さん」への思いとともに、私の心の中で複雑に絡まっている。
ただ一つだけ明確に言えることがある。
たとえ、事実を歪曲し、「趙兄さん」が「恩人」になり、「解放軍の恩人」が私たち一家を飢餓の長春から救い出したという、あり得ない美談を創り出したとしても、あの中国共産党の機関紙「人民日報」が、私の「尋ね人」記事を掲載するという「言論のゆるさ」が、1997年当時にはまだあったということだ。
2013年、習近平政権が「七不講」(話してはならない七項目)という指令を出したと言われ始めてからというもの、中国の言論の自由は完全に消失してしまった。私など、今では中国に行ったら、どのような理由を付けて逮捕されるか分からないくらいだ。
いま中国はそういう国になってしまったということを、この「尋ね人」記事を見て、つくづく思う。