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新庄剛志のプロ野球復帰はあるのか?ブランクの後、復帰した選手を振り返る。

阿佐智ベースボールジャーナリスト
NPBでの現役復帰を目指す新庄剛志氏(写真:アフロ)

 阪神、日本ハムの他、メジャーリーグでも活躍した新庄剛志さんが、現役復帰を目指し、インドネシア・バリ島の住居を引き払い帰国することが報じられた。すでにトレーニングは始めており、現役時代の並外れた運動能力から、奇想天外ともいえる48歳でのプロ復帰に肯定的な意見もちらほら聞かれる。しかし、彼が引退したのは2006年のシーズン後のこと。一流プロ野球選手の現役期間にも匹敵する13年ものブランクがある。それでもなんとなく期待を抱かせてしまうのが、彼の「宇宙人」たるゆえんだろう。その後しばらくこの件は音沙汰なしとなっていたが、先月には、『もう一度、プロ野球選手になる。』と題した書籍を公刊している。聞いた話では、北海道に発足した独立リーグがオファーを出したらしいが、これはあっさり断られたらしい。今、彼はどうしているのだろう。

 それにしても、現役をいったん退いた後の復帰は可能なのだろうか。ここでは過去の例を振り返ってみる。

引退しながらも現役復帰した巨人のエース

 いったん現役を退いてからの復帰と聞いて真っ先に頭に浮かぶのが、「エースのジョー」こと城之内邦夫の例だ。プロ入り1年目の1962年にいきなり24勝を挙げ、1960年代の巨人のエースとして君臨していた大投手だ。しかし、V9時代の後半になると他の投手の台頭もあり、出番が激減、1971年シーズン後、1勝0敗という成績を残して引退し、解説者に転じる。

 しかし、その3年後の1974年、ロッテで突如現役復帰した。もともと31歳での巨人引退も、その背景には首脳陣との確執から干されていたこともあり、まだまだ投げることができたとの思いが強かったのかもしれない。また、この当時のロッテの監督が巨人で現役を終えた金田正一であることも大きく影響しているものと思われる。往年の力がなくなっていた金田が前人未到の400勝を挙げた試合に先発した城之内は、リードを保ったまま5回に金田にマウンドを譲って勝ち星をプレゼントしている。このことも不完全燃焼だった城之内の現役復帰に大きく影響しているものと思われる。

 復帰後、城之内の登板は5試合。1試合に先発したが勝敗はつかず、戦力になったとは言えなかったが、チームはリーグ優勝を果たし、日本一にも輝いている。

 城之内の例は、「現役復帰」が話題に上ると必ずと言っていいほど引き合いに出されるが、彼の他にも意外な「レジェンド」が2シーズンのブランクをはさんでマウンドに復帰している。

パ・リーグで現役復帰した「フォークボールの元祖」 

 杉下茂と言えば、「フォークボールの元祖」として戦後のプロ野球史を彩った名選手のひとりだ。1958年まで新人の49年を除き9年連続2ケタ勝利、うち50~55年は2度の30勝を含む6年連続20勝という現在では信じられないような記録を残した中日の大エースだが、意外なことに現役の最後は大毎(現ロッテ)で終えている。2シーズンのブランクを経てコーチとして入団したこのチームでマウンドに登り4勝を挙げて引退をしたが、この1年のプレーのせいで「現役時代の平均年間勝利数20勝以上」というとてつもない記録をふいにしている。

 現実には、杉下は中日での事実上最後のシーズンとなった1958年以後の2シーズンも監督を務めながらも選手として登録はされていたのだが、これもかたちだけで実際には登板することはなく、監督を辞めた後、指導者としての移籍先ではからずも「現役復帰」を果たしたことになった。ちなみに杉下が大毎でマウンドに登ったのは37歳になるシーズンだった。この時代、30歳を超せばもう現役引退が迫っているという感覚だった。

 また、史上最年少の20歳11か月で完全試合を達成した大洋の島田源太郎は、実働13年目の1970年、勝ち星なしに終わると、引退し投手コーチ補佐に就任するが、1年のブランク後、1972年には現役復帰し、3勝を挙げ、翌年までプレーしている。

 選手の数も少なく、選手間のレベルの差があったこの頃は、まだ第一線で活躍した選手なら多少のブランクがあっても、二線級選手よりはいいパフォーマンスを出せたのだろう。また、「球界のご意見番」としてお茶の間の人気者だった大沢啓二は、1965年に33歳で引退した後、東京(現ロッテ)の二軍時代の68年に、選手不足を補うために二軍戦に出場している。

台湾で現役復帰したドラ1

 80~90年代は、選手の層も厚くなり、各球団とも戦力が整備されたこともあって、大物の現役復帰は見られなくなったが、その中で、国外で現役復帰し、日本に凱旋を果たしたのが野中徹博だ。1983年のドラフト1位で阪急に入団した甲子園のヒーローだったが、当時、伝説のサブマリン・山田久志を筆頭に充実した先発陣を誇ったチームにあって、頭角を現すことができず、故障もあり、打者転向後、オリックスに球団名が変わった1989年限りで自由契約を言い渡された。

 その後はサラリーマン生活を送りながら草野球をしていたが、故障が癒えたことを実感すると、つてを頼って台湾に渡り、1993年に28歳で年号またぎの現役復帰を果たす。そして、台湾で15勝を挙げた彼は、翌1994年には中日へ移籍、1998年にヤクルトで現役を終わるまでマウンドに立ち続けた。

21世紀に入ってからの現役復帰

 今世紀に入ってからでは、かつてのロッテのエースで、2000年オフ、FAで横浜からメジャーリーグに挑戦、メッツに入団した小宮山悟が、2002年シーズン限りで解雇された後、1年のブランクを経て2004年に39歳で古巣ロッテに返り咲きを果たしている。しかし、彼の場合、ブランク期間もフリーの「現役選手」として解説者をしながらトレーニングは積んでおり、本人は引退したなどとはつゆも思っていなかった。「フリーエージェント」として、プレー先なく過ごすということは、アメリカ球界では取り立てて珍しいことではないので、メジャー指向の強い彼にとっては別段特別なことではなかったようだ。

 また、近鉄の「いてまえ打線」の中核を担った助っ人、タフィー・ローズの例もよく知られている。

 1996年の来日以降、「優良助っ人」として近鉄でホームラン王を2度獲得し、近鉄最後の2001年のリーグ優勝にも貢献したローズだが、2004年には巨人に移籍。ここでも打線の中軸をになったものの、首脳陣との確執もあり、2年目の2005年に規定打席数を割ると球団はあっさり彼をリリースした。当時38歳という年齢もあり他球団との契約もなく、翌年はシンシテティ・レッズの招待選手としてキャンプに参加するが、メジャー契約には至らず、ここで一旦現役引退を表明した。

 しかし、1年のブランク後、古巣・近鉄を吸収合併したオリックスの入団テストを受け、見事に契約を勝ち取った。この現役復帰には、重鎮の解説者から「野球をなめている」との辛辣な批評もあったが、ローズは42本塁打を放ち、.403でリーグ最高の出塁率を記録するなど見事に復活を果たした。

 彼のストーリーはまだ終わらない、40歳で迎えた2008年シーズンも40本塁打を放ち、健在を見せつけたが、2009年シーズン途中に右手に死球を受け骨折、シーズン後半を棒に振ってしまう。それまで3割をマークし、22本塁打を放つなど、怪我さえ癒えれば翌シーズンも十分に活躍が期待できたが、骨折の公傷かいなかの解釈を巡って契約が難航し、結局ファンに惜しまれつつ退団となった。その後契約する球団は他になく、2010年はシンシナティ・レッズのキャンプに参加してメジャー復帰を狙うも、それもかなわず、42歳で事実上の引退となった。

 そんなローズが2015年春、47歳で突如として「現役復帰」した。復帰先は独立リーグ、ルートインBCリーグの富山GRNサンダーバーズ。コーチ兼任での復帰だった。ここで彼は総試合数の半数強の41試合に出場、打率.315、5本塁打という好成績を残し、翌2016年も来日の予定だったが、結局、独立リーグでの現役継続という道は選ばなかったようで、再び富山の地を踏むことはなかった。

 NPBやMLBという既存プロでのプレーが叶わない選手が集まる独立リーグでの現役復帰としては、ローズが復帰の同年、2015年にメジャー23シーズンで首位打者も獲得、日本、韓国、メキシコのトップリーグでもプレーした「レジェンド」、フリオ・フランコ(元ロッテ)もおなじBCリーグの石川ミリオンスターズで監督兼任選手として現役復帰を果たしている。年齢不詳とも言われている彼だが、公称で当時57歳。昭和の高度成長の頃なら一般人でも定年を迎え隠居している年齢だ。監督兼任ということもありさすがに代打中心で25試合の出場だったが、それでも.31.3ときちんと3割はマークしている。この時私は彼にインタビューをしたのだが、出番のなかった試合後、コンディションを保つため、グラウンドをランニングする彼を延々と待たされたのを覚えている。

あのフリオ・フランコもブランクの後、独立リーグで「現役復帰」している
あのフリオ・フランコもブランクの後、独立リーグで「現役復帰」している

 彼はこの前年の2014年にもアメリカ独立リーグのフォートワースでコーチ兼任でプレーし、7試合に出場している。その前に彼がプロリーグでプレーしたのは、2008年。メキシカンリーグのキンタナローで開幕を迎えたのだが、当時で50歳。シーズン途中で引退を発表しているので、ほぼ6年ぶりの復帰だった。

 また最近では、2014年シーズン後に前年戦力外となり打撃投手となったヤクルトの阿部健太が、翌15年にさっそく育成選手として現役復帰したが、これは先述の大沢の例と同じく、二軍の人手不足を補うもので、一軍の戦力を想定したものではない。近年は、3軍を持つ球団が出てきたり、独立リーグとの交流戦を行ったりする球団が増えており、ファームでは選手が不足気味なのだ。登録はせずとも、独立リーグとの試合に、若いコーチやコーチ補佐が一時的に「現役復帰」して試合に出るシーンはちらほら見かける。同じく、独立リーグの方でも、選手不足を補うため、またファンサービスのため、村上隆行(元近鉄など、現中日コーチ)、石毛博史(元巨人など)、森慎二(元西武)などが独立リーグの指導者時代にゲームに出場している。

2010年、独立リーグ・ジャパンフューチャーズリーグで「現役復帰」した石毛博史(元巨人など)
2010年、独立リーグ・ジャパンフューチャーズリーグで「現役復帰」した石毛博史(元巨人など)

 そういう意味では、やはり独立リーグでの現役復帰はハードルが低いと思われるが、新庄さん自身は現在のところNPBしか眼中にないようだ。しかし、アラフィフの14年ぶりの現役復帰は正直現実的ではない。コロナ禍で独立リーグの経営は窮地に追い込まれている。その今、せめて独立リーグでその夢を叶えてくれれば、ファンもあの雄姿を再び見ることができていいのではないだろうか。もしそれが現実になったときには、彼はヒーローインタビューでこう言うに違いない。

「これからは、メジャーでも、NPBでもない。独立リーグです」。

(文中の写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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