日本馬初ダートのドバイWCを勝ったウシュバテソーロの指揮官が手にした家宝とは?
前走後ドバイ参戦が決定
2月1日。ウシュバテソーロが東京大賞典(JpnⅠ)に続き、川崎記念を勝った直後の事だった。
「凱旋門賞へ向かうかもしれません」
電話口の向こうで、そう語ったのは高木登。同馬を管理する調教師は、一度電話を切ったが、その後、すぐにまたかけ直してくると、言った。
「ドバイへ行く事になりました」
こうして春、最大の目標として、アラブ首長国連邦で行われるドバイワールドカップ(GⅠ)へ挑む事になった。
3月21日、火曜日の早朝、現地入りした高木。1週間前に中東入りした愛馬の姿を見て、感じた。
「到着当初は少しイライラしていたみたいだけど、思ったより落ち着いていて、良さそう」
そもそも暑さに弱いタイプなので、中東の気候が心配だった。その点については、次のように語る。
「自分が到着した時はむしろ涼しいくらいだったし、馬房の中はクーラーも効いていたので、体調は良かったです」
翌22日、水曜の朝には最終追い切りが行われた。騎乗したのはレースで初タッグを組む川田将雅。リーディングジョッキーに対し、高木は伝えた。
「『現在は昔よりもコントロール出来るようになっているけど、我の強い馬なので、そのあたりを注意して跨ってください』と伝えました」
そうして行われた追い切りを見て、思った。
「前半はモノ見をしているのかフワフワしている感じに見えたけど、最後は弾ける感じをあえて抑えているようで、動き自体は良く感じました」
装鞍時に思わぬ仕種
こうして迎えた25日のレース当日。ナイター競馬の上、輸送もないため、日本とは違い、朝も馬場に出した。
「朝の感じはいつも通りでした。ただ、レースが近付き、待機馬房へ移動した頃には少しピリピリしている感じでした」
過去にこの開催に参戦した人から事前に情報を収集し、騒音がかなりうるさいと聞いていた。しかし、これは良い意味で、違ったと言う。
「聞いていたほどうるさくなくて、むしろ意外と静かでした。これなら大丈夫と思ったら、やはり『多少のイレ込みがあったかな?』という程度で済みました」
それでも装鞍の際は、変な行動を見せたと続ける。
「テンパっているのか、寝転びそうな格好をしました」
それでも何とか我慢してくれると、パドックへの集合合図がかかった。
「発走時刻を考えると、パドックは何分も回らない事が分かりました。気性的に少し難しい面のある馬だけに、これは好材料だと思いました」
新パートナーである川田には「お願いします」とだけ伝えたと言う。
「枠順抽せん会の時もずっと一緒にいて、彼がシミュレーションをしている姿も見ていました。だから余計な事は言いませんでした」
ゲートボーイは付けなかった。
14年、スノードラゴンで香港スプリント(GⅠ)に挑戦した際もゲートボーイは断った。しかし、隣の枠のゲートボーイを多少気にしてしまったそうだが、今回はその心配がなかったのか……。
「現地でもゲート練習をしっかりやって、そのあたりの心配はないと判断しました」
最後方から偉業達成
こうしてスタートを切ると、ポンと出て、その後、うながされる姿が指揮官の目に映った。
「最初は想定していた感じでした。ただ、1コーナーを回ったあたりで画面から消えた時はさすがに『大丈夫かな?』と思いました」
「先行勢がかなりやり合っているのは良いと思った」(高木)が、心配事も、勿論あった。
「ドバイのダートはかなりキックバックがキツいと、調教の時から皆、言っていました。それでリズムが崩れてしまうのが心配でした」
しかし、離れた最後方から馬群にとりついたウシュバテソーロを見て、胸を撫で下ろした。
「その時点で、しっかりとハミを取っているのが分かりました。これならいつも通り上がって行けると思ったら、実際、3~4コーナーでジワジワと進出してくれました」
直線に向く。前でアルジールスが完全に抜け出した。この馬はいずれも時計のかかる馬場状態の中、抜けた好時計で連勝中。かなり有力と思われた馬だったが、しかし、高木の視線は自らの管理馬だけをとらえていた。
「ウシュバテソーロだけしか見ていなかったので、前に何がいるかは分かりませんでした。ラスト200メートルくらいでの脚色で前をかわせそうと感じ、最後の100メートルでは勝ちを確信出来ました」
家宝をゲット
こうしてウシュバテソーロは、日本馬として史上初めてダートのドバイワールドCのゴールを先頭で駆け抜けた(オールウェザー時代には11年にヴィクトワールピサが勝利)。レース直後には尻っ跳ねを見せたり、メンコ(耳覆い)を外そうとした際に急にUターンしそうになったりと、オルフェーヴル産駒らしい面を見せたが、その血だからこそ海の向こうでも力を発揮。金細工師の子供があまりにも大きな金星を掌中に収めてみせた。
「キックバックが目に当たってしまったようですが、大事には至らず、良かったです。表彰式の際もただただ嬉しくて、挑戦を決断してくださったオーナーに感謝の気持ちでいっぱいでした」
レース後には凱旋門賞(GⅠ)挑戦のプランが再浮上したが、その点については次のように続けた。
「まだ決定ではありません。ただ、アメリカのブリーダーズCも含め、選択肢が広がったのは事実だし、良かったです」
高木がドバイへ行ったのは、今回が2度目だった。以前はシェイク・モハメドの奨学金制度で、ヨーロッパでの研修に参加。3ケ月の研修の最後、帰り道にこの地へ降り立った事があった。
「研修を終え、そのまま帰国のはずが、急きょドバイへ寄る事になりました。当時はナドアルシバ競馬場で、開催もやっていない日だったけど、あちこち案内していただき、ラムタラも見させていただきました」
全てを賄ってくれたモハメド殿下に、いつか恩返ししたいと、当時、思った。今回、ワールドカップを制した後、殿下に呼ばれ、記念撮影をした。その際「少し恩返し出来たかな……」と感じた。翌日、現地の新聞に掲載されたその写真は「家宝になった」と高木は感慨深げに語った。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)