<朝ドラ「エール」と史実>離別の真相…村野鉄男のモデル・野村俊夫の弟は、ガダルカナルで戦死していた
朝ドラ「エール」、今週は村野鉄男に焦点が当たります。この村野は、作詞家の野村俊夫がモデルです。
野村は、1904年11月28日、福島市上町の魚屋「魚忠」に生まれました。男6人、女5人の、上から4番目の三男でした。本名は、鈴木喜八といいます。つまり古関裕而の5歳上にあたり、同級生ではなかったのですが、近所の遊び仲間だったのは事実でした。
ドラマでは、その境遇はかなり悲惨でしたが、実際はそこまでではなかったと、野村の妹・令子が証言しています。
ここで書かれているように、野村一家は引っ越したため、一時、古関との交流が途絶えるのです。
■「吾は見き 汝が猛き姿を/吾は見き 汝がますらをぶりを」
ようするに「夜逃げ・一家離散」は架空のエピソードなのですが、野村は、弟のひとりと別の理由で離別しています。
それはほかならぬ戦死でした。五男の鈴木忠治郎が、1942年10月24日、激戦地で知られているガダルカナル島で亡くなっているのです。野村はこの弟のために、戦時下の1944年、「弟よ」という詩を書いています。その一部を以下に引用します。
かれはおそらく、同島に投入された、会津若松の歩兵第29連隊所属だったのでしょう。古関の母方の実家である武藤家の男子も、ガダルカナル島で戦死しています。
そのため、古関も野村も、生まれる年がもう少し遅かったり、レコード業界での活躍がなかったりすれば、徴兵されて、どうなっていたかわかりません。
■ヒット曲「東京だョおっ母さん」は弟の戦死が深く関係
野村の戦後における代表曲といえば、1957年の「東京だョおっ母さん」です。船村徹が作曲し、島倉千代子が歌って、大ヒットしました。先述した野村の妹・令子によれば、この歌の誕生には、戦死した弟・忠治郎が深く関係しているといいます。
忠治郎が戦死したとき、野村の母が東京で生活していた娘たちを訪ねてきました。「東京だョおっ母さん」は、そのときの模様を書いたものだというのです。
そう考えると、歌詞に二重橋、九段坂、浅草が出てくることの意味がよくわかります。浅草は定番の観光地ですが、二重橋は皇居、九段坂は靖国神社の、それぞれ代名詞だからです。
歌詞で「兄さん」とアレンジされているのは、「弟さん」では不自然だからでしょう。このように野村の歌詞には、戦後も戦争が影を落としているのです。