驚異の強行軍を行った北畠顕家!それを可能にしたのは?
日本の歴史上ではしばしば驚異的な出来事が起こっています。
その中でも特に有名なのが、北畠顕家の強行軍です。
今回は北畠顕家の強行軍について紹介していきます。
1.1日50キロメートルのスピードで上洛した北畠顕家
北畠顕家は南北朝時代の武将です。
顕家は幼少期より武芸の才に恵まれており、1333年に陸奥守に任命されると、陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県)に行き、東北地方の統治をはじめました。
顕家は多賀城(宮城県多賀城市)を本拠地として東北地方を転戦し、敵対勢力を片っ端から破っていたものの、事態は一変します。
鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に駐屯していた足利尊氏が反乱を起こし、京への進軍を始めたのです。
それに対して顕家は尊氏軍を倒すために、尊氏を追う形で1335年12月22日に5万人の兵を引き連れて上洛を開始しました。
1336年1月2日、顕家は先述した尊氏の本拠地の鎌倉を攻め、これを陥落させます。
しかし顕家は休むことなく、翌日には再び進軍を始めました。
その後1月13日に坂本(現在の滋賀県大津市)にて仲間の新田義貞や楠木正成と合流し、顕家は彼らと協力して尊氏軍を京都から撃退しました。
この時の顕家軍はわずか20日余りで1000キロメートルもの距離を移動しており、これは一日50キロメートルの速さです。
その上顕家は先述した鎌倉以外でも上洛中に戦いを繰り広げており、決して移動だけに集中できた環境ではありません。
戦国時代の軍隊でも一日に進める距離は大体20キロメートルであることを考えると、南北朝時代に1日50キロメートルのスピードで進んだ顕家がいかに異質なのかが窺えます。
2.顕家の通った後にはペンペン草も生えなかった
言うまでもなく長距離を遠征する場合は強い経済力や兵站が必要です。
そのようなこともあって、明らかな強行軍の遠征をおこなった場合、食料不足に陥ることは容易に想像できます。
にも拘らず、顕家は5万の大軍を率いて東北から京までの遠征を成し遂げました。
この一見不可能に見える遠征を可能にしたのが、物資の現地調達です。
顕家の軍隊は行く先々で村々を襲撃し、行軍に必要な物資を略奪していきました。
これにより補給スピードの追い付かない速度での行軍を可能にし、20日余りでの上洛を可能にしたのです。
しかし街道沿いの村が受けた被害は甚大なものであり、顕家軍が通った後の村にはペンペン草さえ生えなかったとのことです。