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「北谷の暴君」と呼ばれた非行少年が 子どもたちを支えるに至ったワケ

湯浅誠社会活動家・東京大学特任教授
ボランティア団体HOME代表の仲座大二さん(当時17歳)(HOME提供)

沖縄県北谷(ちゃたん)町

リゾートホテルの立ち並ぶこの街で、ワルガキどもを率いてゴミ拾いなどを行っている若者がいる。

仲座大二(なかざ・だいじ)ボランティア団体HOMEの代表者。

実直な好青年という風体の大二だが、かつては「北谷の暴君」と呼ばれた非行少年だった。

少年院も経験した大二が、今、子どもたちのために活動するワケとは。

本人に聞いた。

現在の仲座大二。かりゆしに身を包んだ好青年。見えないが、冒頭の写真と同一人物
現在の仲座大二。かりゆしに身を包んだ好青年。見えないが、冒頭の写真と同一人物

野球に打ち込むも、芽が出ず

小学生のころは野球少年だった。

野球が好きで、誰よりも努力していた自負はあった。父親も応援してくれた。試合を見にきて応援してくれることはもちろん、毎日のようにバッティングセンターに連れていってくれた。週7日、毎日1000円分打ち込んだ。

でも、結果はついてこなかった。

チームは沖縄県大会で3位に入る強豪だったが、大二は2番でショート。それだけ練習してもバッティングが良くなくて、バントばかりしていた。レギュラーではあったが、不満だった。

野球以外で目立てるものは…

思うように結果が出ず、中学に上がるころには野球に対する熱意は冷めていた。

目立ちたがり屋の大二少年は、野球以外で目立てるものを探し始める。勉強はもともと好きではなかった。野球と勉強以外で目立てるもの…

そのとき、大二は2つ年上の兄が、友だちと隠れてタバコを吸っているのを目撃する。

「かっこいいな、と思ってしまった」

中学に入ったときには、そうやって生きていくことを心に決めていた。

非行=挫折+目立ちたがり?

まずは、タバコと酒から始めた。

学校には行っていたが、授業には出ない。職員室に花火を打ち込んだりして、過ごした。

いつも同じ3人のメンバーでつるんでいた。

そのうちの一人は、大二と同じく、小学校時代にはスポーツに打ち込んでいた。

「そいつもどこかで挫折を味わっていたと思う。それと、やっぱり一番は、目立ちたいっていうのがある」。

目立ちたがり屋が挫折を経験すると非行で目立とうとする――そういう構図なのだろうか。

警察にも2回おせわに

周辺の4つの中学で「番」の張り合いをやったり、地域のお祭りで後輩からカツアゲしたり、一通りのワルをやった。

警察にも2回お世話になった。一度は、友だちをボコボコにして。二度目は、学校の先生と取っ組み合いをして。

当然、親は嘆いたが、聞く耳はもたなかった。

高校は1ヶ月で中退

それでも高校には入れた。

「名前を書ければ入れるような高校」

ただ、1ヶ月で辞めた。

同じHOMEの與古田亮希(よこだ・りょうき)が口を挟む。

「沖縄では、高校行ってまで学校で暴れてるのは『恥ずかしいこと』というイメージがある。非行年齢が早い分、落ち着くのも早い」

大二が次ぐ。

「目立たないですね。学校に行く意味がなくなって、それで辞めて、先輩とバイクに乗り出したんです」

目立つことが行動原理だから、目立たないのであれば、学校に行く意味もない。

仲座(左)と與古田(右)。かつての先輩後輩
仲座(左)と與古田(右)。かつての先輩後輩

「北谷の暴君」、暴走する

やったのは、暴走行為。

「暴走族はたいていこれに乗る」と大二が言うカワサキ・ゼファー400に乗り、群れて走る。

この頃から、大二は「北谷(ちゃたん)の暴君」と呼ばれるようになったと言う。

一つ年下の與古田は言う。

「自分も16~17歳でバイク乗り出したんで、つるむ場所でよく見かけていた。『あの人が仲座だ』っていう感じで、しゃべったことはない。北谷の後輩仲間が『あの人にアバラ折られた』とか言ってた」

「中学のときから、同級生からは言われるようになっていたんですけどね。カッとなったらすぐ手を出すんで、それで」と大二は苦笑い。

冒頭の写真には、たしかにその雰囲気がある…。

いかにもという格好でバイクを乗り回していたころ。ボロボロになった写真が一枚だけ残っている(HOME提供)
いかにもという格好でバイクを乗り回していたころ。ボロボロになった写真が一枚だけ残っている(HOME提供)

崩れ切ってはいなかった

それでも、崩れ切ってはいなかった。昼間はちゃんと働いていた

「高校辞めてから半年くらいはフラフラしてたんですが、友だちの紹介で、土砂崩れを防ぐ法面(のりめん)工事の仕事をしていました。

最初のころは、酒飲んだ次の日に休んだこともあったんですが、親方が本当に厳しい人で、翌日出て行ったら、とにかくこっぴどく叱られた。これじゃあ休まないほうがマシだと思わせられるくらい」

しかし、周りを見れば、すぐに辞めちゃう人はたくさんいたはず。

「たしかに。ほとんどがそんな感じ。でも仕事を教えてくれていた人が北谷の大先輩で、『仕事辞めたら、街を歩きにくくなるな』とか。学校辞めちゃってるから、仕事くらいはちゃんとしなきゃっていう気持ちもあったし」

仕事を辞めて、地元も離れるということは考えなかった?

「それはない。自分は地元が好きなんで、どこかに行こうと考えたことはなかった」

大二はそうして月に16~17万円を稼ぎ、4万円を家に入れ、残りをバイクに使った。

大二の口から親の影響が語られることはなかったが、過去を語る大二の言葉の端々からは、両親の愛情がどこかで大二を踏みとどまらせていたのではないかと感じさせるものがあった。

それが、その後に効いてくる。

転機としての少年院送致

転機は、じきに訪れた。

17歳のとき、暴走行為を理由に、警察に捕まった。

最初は鑑別所に行ったが、保護観察処分となり、すぐに帰ってきた。

しかし、出てすぐまた暴走行為を行う。

「出てすぐだったんで、反省してないと思われたんでしょうね」

今度は少年院行きだった。

そのときの情景を大二はこう語る。

「家裁の審判のときに少年院送致が決まって、自分の中では覚悟があったので、『行ってくるよ』って感じだったけど、母ちゃんが泣き崩れて、守ってあげられなくてごめんねって言われて、すごく違和感を感じて…。

なんで自分が悪さをしているのに、母ちゃんが自分に謝ってくるんだろうって。

そのときに、今まで自分がやってたことは間違ってたんだって、価値観が覆されて、自分も涙流して。なんかスッキリした気持ちもあった。ここまでやったからいいだろうって。

出ても、少年院まで出てるんだし、非行に走る必要もないなって。おもしろくてやってたわけではないし」

引くに引けなかったものの幕引き

少年院を経験すれば、もう非行に走る必要もない――興味深い理屈だ。

大二は「逆に非行に縛られていたんじゃないか」とも言った。「一回始めたから、ここで抜けたら仲間に示しがつかない(と感じていた)」とも。

どこかで「おれ、何やってんだろう」と思いながら、引くに引けなかったということだろう。おもしろいわけがない。

警察と少年院のおかげで強制的に打ち切られた。そこに母親の涙が重なった。

もともと崩れ切ってはいなかったが、大二は、これを転機に「立ち直る」。

大学で再会

少年院は、模範生で過ごし、半年で出てきた。18歳になっていた。

その後、前の仕事に復帰。通信制の高校にも入り直した。

前の仲間と会うことはあったが、バイクには乗らなかった。

「学校の課題とかもあって、忙しくて遊んでる暇もなくなった。仕事を楽しくやって、終わったら学校の課題をするっていうのが生活のサイクルになった」

そして、沖縄大学法経学部に合格。入学直後のオリエンテーションで與古田と再会する。かつての先輩後輩は、同級生になった。

「いいことして目立とう」

その一年後、大二はボランティア団体HOMEを立ち上げる。

地元のかつての暴走族仲間と「今まで社会に迷惑かけたから、社会に恩返しというか何かやりたいねって」話したのがきっかけだった。2013年。

とりあえず地域のゴミ拾いから始めた。

スローガンは「いいことして目立とう」

「目立つ」という行動原理は変わっていない(笑)。

反発と自負と

かつての暴走族仲間や、いまグレている中学生ら15人くらいが集まって、みんなでそろいのTシャツを着てゴミ拾いをした。

背中には「地元北谷に恩返しだ」の文字。

当然、反発も受けた。「おまえらに何ができるん」って。「今までさんざん好き勝手してたくせに、いまさら何をやってるば」って言われ続けた。

言われて当然と思いつつ、大二には自負もあった。「これは、自分らにしかできないことだ」と。

中学生らを集めるのに、学校などは一切関与していない。かつての縁をたどっていけば、すぐにワルどもにたどり着いた。そして連中は、進んで参加してくる。同じ目線をもつ自分たちだからこそ、親や学校の先生には反発しかしない中学生が寄ってくる。

「地元北谷に恩返しだ」と書き込まれたTシャツ(HOME提供)
「地元北谷に恩返しだ」と書き込まれたTシャツ(HOME提供)

先生にはできない、ワルガキのゴミ拾い

現在、HOMEは中学校にもスクールサポーターとして入っているが、その経緯が大二の自負を裏づけている。

ある中学校が荒れていた。大二たちは「自分たちが入って変えたいね」と話し、自らその中学校に出向いた。

が、門前払いだった。

しかし1ヶ月後、学校から連絡がきた。今度はお願いされた。

学校の態度が変わった理由は、HOMEのゴミ拾いをその学校の教頭がたまたま目撃したからだった。

学校では暴れている子どもたちが、HOMEでは大二たちとおとなしくゴミ拾いをしている。教頭は「この人たちの力が必要」と思ったのだろう。

ガチで向き合う

ゴミ拾いやスクールサポーターの他にも、HOMEの活動は、公民館や公園の掃除、夜回り、勉強会、講和会など多岐にわたる。

子どもたちに対する大二の覚悟は次の言葉に表れている。

「ガチで向き合う。本当にガチで」

勉強会の他に、與古田が自分の人生を語る講和会も。「家が貧困で、自分は何してもダメって思ってる子が多い」(HOME提供)
勉強会の他に、與古田が自分の人生を語る講和会も。「家が貧困で、自分は何してもダメって思ってる子が多い」(HOME提供)

朝の5時半まで夜回り

たとえば、夜回り。

はじめは地域住民主催の夜回りに参加していたが、終了時間が決まっているため、十分な話しこみができない。子どもたちがたむろしていても「早く帰りなよ~って、そのまま」。

大二はそれが嫌で、自分たちで始める。

「中学校の卒業式の日にやったときは、朝の5時半までいた」と大二は笑う。

親たちと怒鳴り合う

たとえば、親。

「最近の親の中には勘違いしているもんがいる」と與古田は憤る。「子どもの機嫌とるためにお金渡して、自分は親なんだって実感してる。パソコンあげて、みたいな。あと、僕らは体罰禁止って言ってますけど、人として間違ってるときは頭くらい叩く。そういうときにかぎって親が出てきて、子どもの味方面する。15年間ほっといて、何が子どもの味方かって思う」。

大二も言う。「親とはバンバン喧嘩する。怒鳴り合い」。でもそれで親としっかりした関係の築けることも少なくない。

HOMEの事務所は、事務所というより「たまり場」だ(HOME提供)
HOMEの事務所は、事務所というより「たまり場」だ(HOME提供)

昔の自分を思い出しながら

先輩風を吹かせて押さえつけるのではない。

昔のやり方がもう通用しないことは、よくわかっている。

「昔のやり方ですぐ何かあったら叩いてっていうやり方では、離れていってたりする子が多くて…。もう時代は変わっている。

自分らはそうやってきたし、やられてもきたけど、やり方変えようかって話し合って…。そしたら離れていくとかより、くっついてくるようになった」

「ふだんは冗談言ったり、いじったり…。理屈ではなく、感覚で。むやみに反発していた昔の自分の感じ方を思い出しながら接すれば、たいていの子は心を開いてくれる。最初は何も話さなくても、面談を積み重ねていけば、だんだん相談をするようになる」

一緒にメシを食うのは大事なコミュニケーションだ(HOME提供)
一緒にメシを食うのは大事なコミュニケーションだ(HOME提供)

どん底からはい上がる姿を見せたい

現在、大二は税理士の資格を目指して勉強している。

通信制高校に通っているころ、資格の本で見つけて、決意した。

少年院にまで入って、どん底まで落ちた自分がはい上がるチャンスでもあると思った。

一度は挫折しかけたが、子どもたちを前にして、夢をあきらめる姿は見せられないと奮起した。

できることなら、どん底からでもはい上がれるという姿を子どもたちに見せたい。

今年の試験は3日前にあった。発表は12月だ。

同じ経験をし、同じ目線をもつ者による支えは、「専門家」とは違った効力をもつ

大二とHOMEの取り組みは、今後も沖縄の子どもたちを勇気づけ続けることだろう。

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社会活動家・東京大学特任教授

1969年東京都生まれ。日本の貧困問題に携わる。1990年代よりホームレス支援等に従事し、2009年から足掛け3年間内閣府参与に就任。政策決定の現場に携わったことで、官民協働とともに、日本社会を前に進めるために民主主義の成熟が重要と痛感する。現在、東京大学先端科学技術研究センター特任教授の他、認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長など。著書に『つながり続ける こども食堂』(中央公論新社)、『子どもが増えた! 人口増・税収増の自治体経営』(泉房穂氏との共著、光文社新書)、『反貧困』(岩波新書、第8回大佛次郎論壇賞、第14回平和・協同ジャーナリスト基金賞受賞)など多数。

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