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祝・慶応日本一! エンジョイ・ベースボールと長髪をいまさら大騒ぎしないでね

楊順行スポーツライター
KEIOのユニフォーム。これは大学生ですが(写真:岡沢克郎/アフロ)

 なんとも痛快なチームである……という書き出し。1995年、35年ぶりに春の関東大会に出場した慶応を取材したときの拙稿だ。「髪の毛が長い」とか、「エンジョイ・ベースボール」とか、さもいまに始まったことのようにワイドショーは騒ぐが、そんなのはもう30年近く前から、いや、100年以上前の創部以来ずっと受け継がれてきた話だ。

 その、95年春の関東大会。対戦相手の甲子園常連校が、試合前に挑発してきた。

「オマエらみたいに遊び半分で野球やっているチームに、負けるわけにはいかねえんだよ」

 答えて、慶応ナイン。

「何いってんだよ、野球は遊びに決まってんじゃん」

 そして本番では、その強豪を倒してしまうから痛快なのだ。その当時、慶応を率いていたのは上田誠監督である。神奈川・湘南(そういえば、49年夏の甲子園で優勝したこのチームも長髪で知られている)から慶応大を経て指導者となり、慶応義塾中等部コーチなどを経て慶応の監督になったのが91年だ。

 当時の慶応は、62年夏の出場を最後に、甲子園から遠ざかっていた。なにしろ神奈川には横浜、東海大相模などを筆頭に強豪がゴロゴロいる。「野球は遊び」と公言するチームでは、とうてい歯が立たなかった。

野球は遊びに決まってんじゃん

 ところが95年は吉原大介、のちに野手としてプロ入りする2年生の佐藤友亮という投の二枚看板を軸に、春の神奈川で準優勝。関東大会でも拓大紅陵、浦和学院を下してベスト8入りし、この時点で33年ぶりの甲子園出場が期待されていた。ただ、当時の上田監督はこんなふうに語っている。

「春は、"県で優勝しよう"を合言葉にやってきました。見ていておもしろかったですよ。コイツらだってやればできるじゃないか、と。サイン無視なんて日常茶飯事。私を円陣から追い出すこともある。でも、それが本来の姿でしょう。野球をやるのは彼らで、選手たちの自主性がなければ、高校野球は大人の手から離れません」

 関東大会での練習中には、こんなことがあった。上田監督がうっかり、ストッキングを前後逆にはいているのを見つけたある選手が「監督、緊張しているんじゃないですか」と冷やかしたのだ。翌日の試合で上田監督は、県大会では六番だったその選手を三番に抜擢。

「恥をかかせてやろうと思ったんですが(笑)、その試合は延長13回にそいつが決勝打です」

 なんとも風通しがいい。

 このころの慶応は推薦制度がなく、「部員の3分の1はタッチアップも知らないほどのシロウト」(上田監督)同然。それでも環境を整えれば、力を発揮した。学校は2002年にスポーツ推薦制度を導入したが、偏差値70を超える難関校とあって、推薦の条件は「内申書の評定で3・8以上。自分はギリギリでした」(現チームのエース・小宅雅己)というから、バリバリの好素材ばかりが集まるわけでもない。念願の甲子園は、推薦制度導入から4年目の05年センバツだった。

 甲子園に出場した古いOBたちは、丸刈りじゃない頭を見た観客から「髪を切ってこい」と野次られたことを誇らしげに話すという。上田監督なら、

「自分の高校時代を考えれば、女の子とも仲よくしたいし、おしゃれもしたかった。指導者になったとたん、それに眉をひそめるのはおかしな話です」

 と語っており、深く納得したものだ。

 ちなみに今回、107年ぶりの優勝をもたらした森林貴彦監督は95年当時、慶応大に在学中。確認はしていないがおそらく、上田監督のもとで学生コーチを務めていたはずだ。受け継ぐDNAは「野球は遊びに決まってんじゃん」。だけど、楽しいといえるほど突き詰めるにはそれなりの苦しさもある。そういえば森林監督は、そのメンタリティーを「苦楽心」と表現していたっけ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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