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夏の甲子園/第9日の雑談 日大三・二宮士、記録に迫る7連続安打。唯一の8打席8安打はだれ?

楊順行スポーツライター
1976年夏の末次秀樹(写真:岡沢克郎/アフロ)

「どこに投げても打たれる感じでした」

 鳥栖工(佐賀)の松延晶音捕手はお手上げ状態だった。日大三(西東京)との2回戦。自らのタイムリーで初回に先制したはいいもののその裏、1死二塁から二宮士に同点二塁打を浴びる。その後も点にこそつながらなかったものの二宮は3回、5回、7回の打席でセンター中心にヒット。8回、2死一塁の打席こそ「打ち損じでしょう」(松延晶)とセンターフライに倒れたが、1回戦からの連続安打を7打席とし、大会記録にあと「1」と迫った。

 社(兵庫)との1回戦、第1打席こそ凡退したがその後3安打を連ねた二宮は、こう語っていた。

「去年の甲子園で打席を経験しているのは、野手では自分だけ。そして去年もそうでしたが、(西東京大会で使われる)神宮より、甲子園のほうがリラックスできるんです」

 ちなみに二宮は昨夏の甲子園でも、2打数2安打している。そしてこの日も「詰まった打球もたまたまヒットになってくれた」と謙遜しながらヒットを量産。小倉全由・前監督からは「パワーはあるんだから、もっと引きつけて打っていけ」といわれていたといい、1回戦後も、

「"突っ込んでいたので、もう少し我慢すればもっといい打球が打てる"とアドバイスをいただいたのがよかったです」

 とのこと。大会記録にあと1届かなかったことについては、「もう1本打ちたかったのが本音です」と明かしたが、甲子園での8連続安打は過去、春夏ともに複数人いる。だが犠打も四死球もない8「打席」連続、しかもその大会で打率10割というのは、たった1人。1976年夏、柳川商(現柳川・福岡)の末次秀樹のみだ。

恩師からもらったバット、のはずが……

 75年のセンバツに一塁手として出場し、76年夏は久保康生(元近鉄ほか)とバッテリーを組み、四番を打った。三重との初戦、4打席4安打。PL学園(大阪)との次戦も1、2打席目でヒットを打ち、当時の新記録がかかった7打席目もしぶとく右前に落ちるヒットを放った。チームはこの試合で敗れたが、末次は結局2試合続けて4打席4安打。本人から、こんな話を聞いたことがある。

「8打席のうち印象的なのは、1本目です。三重との対戦で、相手は山路一夫君というピッチャー。確か県大会は全部シャットアウトで、確かに、僕ら右バッターにとってはイヤらしい、サイド気味のピッチャーでね。初回柳川が1点を取って、1死三塁で回ってきたんですよ。それが、ポンポンと2ストライクを取られて、手が出ない。“うわあ、三振したら(福田精一)監督に、ボロクソに言われる……”と思いながら3球目、必死に振ったら真芯に当たってヒットです。そこからですね、始まったのは。

 その初戦を4対0で勝ち、PL学園戦。記録がかかった打席達成のときは、なんでオレの打席で球場がわくんだろう? と思ったのを覚えていますが、ここで打ったら新記録、というのを自分は知らなかったんですね。でもそっちに気を取られた分、コースとか球種とか、全然考えなかったんですよ。ヒットになったのは、それがよかったのかもしれません」

 末次が高校に進んだ74年は、夏から金属バットの使用が解禁されている。76年夏の甲子園に臨んでは、中学時代の恩師から、お祝いにと金属バットをもらった。当時はちょっと高価だった、ルイスビル・スラッガーの34インチ。甲子園ではもちろん、それを使いたかった。だが末次は腰痛を抱えており、長いバットは振りにくい。だから、1インチ短いチームメイトのバットと交換した。それは恩師にはずっと内緒です、と教えてくれたことがある。

 高卒時にはプロにも注目された末次だが、腰の不安があって中央大へ。社会人のヤマハ発動機を経て94年から母校の監督を務め、春2回、夏3回、同じ福岡の自由ヶ丘で春1回の甲子園出場がある。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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