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夏の甲子園/第4日の雑談 甲子園初勝利の鳥栖工。OBの名監督といえば……?

楊順行スポーツライター
(提供:イメージマート)

 富山商との1回戦・タイブレーク12回を無失策でしのぎ、最後は無死一、二塁から林航海のバントが相手失策を誘い、3対2でサヨナラ勝ちした佐賀・鳥栖工。春夏通じての初出場だから、当然これが甲子園初勝利ということになり、

「それにしても林のバントは絶妙でした。いわれたことを素直に練習する子。あのコースに転がせば、相手守備陣も焦るでしょう」

 と大坪慎一監督もご満悦だ。ところで鳥栖工といえば、高校球界に大きな足跡を残した大監督の母校であるのをご存じか。福岡で率いたチームを日本一に導き、移った神奈川のチームでも全国制覇した人。もうひとつヒントを挙げれば、優勝した福岡のチームは甲子園出場がいまのところその1回のみ。つまり、勝率10割というチームである。

もうひとつヒント。父子鷹でも知られる人

 答えは……原貢氏。

 1935年3月30日、佐賀県に生まれ、鳥栖工時代は投手兼一塁手。進学した立命館大を中退して54年、社会人の東洋高圧大牟田に入社したが、控えの三塁手で58年に引退すると、会社に在籍したまま福岡・三池工の監督に就任。社会人仕込みの野球を叩き込み、左腕エース・上田卓三(元南海ほか)を中心として、65年夏に初出場優勝を飾った。このとき、東海大一(現東海大静岡翔洋)に大勝したのが東海大グループの松前重義の目に止まり、ヘッドハンティングされると、「都で一旗揚げたい」と、福岡から神奈川に乗り込む。当時の新興チーム・東海大相模の監督に就任したのが66年だ。

 その相模でも69年夏に初出場を果たすと、70年には早くも全国制覇を達成している。つまり、6年間で夏を2回制したわけだ。そして息子が、74年に相模に入学。これが「神奈川に親子鷹」としてスポーツ紙で紹介され、大きな話題を呼ぶことになる。実は貢は当初、息子の入学にいい顔をしなかった。だがその息子本人は、父に連れられて行った73年夏の甲子園で、怪物と呼ばれた江川卓(作新学院)と対面。その感激から「どうしても甲子園に出たい。それには相模しかない」と入学を決断する。

 監督である貢は「親子だからこそ、厳しくする。自分の息子が実力的にほかの選手を6対4で上回っても使わない。7対3で初めて考える」という条件を突きつけた。だが息子のほうは入学早々その条件をクリアし、1年の夏から甲子園に出場。以来3年間で4回甲子園に出場した。

 息子が東海大に進学すると、貢も大学野球部の監督に転身。在学8シーズンのうち、首都大学で7回の優勝を果たしている。息子が巨人入りした直後の84年12月、東海大相模の監督に復帰し、84年からは系列校野球部総監督、90年には東海大監督に復帰し、96年に勇退した。2014年5月没。春夏通算9回の甲子園出場で、17勝7敗の成績を残している。

 いうまでもないが……息子とは、現巨人監督・原辰徳。鳥栖工の選手に「原貢の名前を知っていますか?」と問うと、サヨナラ勝ちの立役者・林は「お名前は知っています」と答えてくれた。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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