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[高校野球]2022年の私的回顧(1) 白河の関は越えた。来春は仙台育英と東北のアベック出場確実

楊順行スポーツライター
神宮大会では、準決勝で仙台育英を破った大阪桐蔭が優勝(撮影/筆者)

「東北の高校野球は伸び盛りだと実感しています。最初こそ私たちでしたが、どのチームも"次は自分たちが"と思っているはずです」

 11月の、明治神宮野球大会。沖縄尚学に逆転サヨナラ勝ちした仙台育英(宮城)・須江航監督はそういった。9回まで4点をリードされながら、その裏一挙5点を奪っての逆転勝ち。夏の甲子園で優勝し、史上初めて優勝旗の"白河の関"越えを果たしたが、その分スタートが遅れた新チームは「突貫工事」(須江監督)。10連覇中だった宮城大会では準優勝に終わっている。それでももともと旧チームからの選手が多く残り、準優勝というのが地力の証明で、東北大会では優勝。

「東北から神宮大会までの1カ月は、腰を据えて強化ができました」

 と須江監督のいう成果が、4点差をひっくり返す神宮大会史上初の最大得点差サヨナラ劇につながった。

育英と東北。この絢爛なライバル関係

 その仙台育英が、宮城の決勝で敗れたのが東北である。

 47都道府県にはそれぞれ、昭和の時代からずっとしのぎを削ってきたライバル関係があるが、育英と東北ほど劇的なライバル物語はあまりない。まずは、両校の甲子園での戦績から。

仙台育英 春=出場13回 14勝13敗 準優勝1

     夏=出場29回 41勝28敗 優勝1 準優勝2

東  北 春=出場19回 14勝19敗 

     夏=出場22回 28勝22敗 準優勝1

 勝ち星では育英がリードしているが、創部は1904年と、東北が先だ。30年の夏には、東北地方の私立校として初めての甲子園出場を果たし、03年夏にはダルビッシュ有(現パドレス)を擁して準優勝している。

 一方の仙台育英は、東北が初めて夏の甲子園の土を踏んだ30年の創部。夏の宮城大会で初めて対戦したのが34年で、仙台育英中(当時)が先輩格の東北中を破り、宮城代表として東北大会にコマを進めている(当時は1県1代表ではないのだ)。

 これを皮切りに、夏の宮城大会では34回対戦していて、仙台育英が19勝15敗1分けとリードしている。そのうち、決勝での激突がなんと半分以上の18回。ここも11勝7敗1分けと、育英のリードだ。

 両者一歩も譲らない関係を象徴するのが"1分け"で、06年夏の決勝では、延長15回白熱の投手戦で0対0。宮城県初の決勝引き分け再試合は、2年生エースだった佐藤由規(元ヤクルト)が前日に続いて一人で投げきり、育英が甲子園出場を手にしている。

 このライバル物語を、なおさら宿命的なものにしたのが、両校で監督を務めた竹田利秋の存在だ。65年から東北のコーチ、68年から監督となった竹田は、在籍中に春夏通じて17回甲子園に出場。東北での最後だった85年夏には、佐々木主浩(元横浜)をエースにベスト8に入っている。

 そして竹田はなんと……86年から、よりによってライバルの仙台育英に移るのだ。一説によると、故郷・和歌山に戻るつもりだったが、当時の県の有力者が「竹田を宮城にとどまらせろ」。そのツルの一声で転身したというが、いずれにしろ、青天の霹靂だった。そして竹田が、育英の監督を勇退するとき後継者に指名したのが、東北時代の教え子・佐々木順一朗(現学法石川・福島)だ。

「高校時代には一番大嫌いだった学校で指揮を執る……僕は母校愛が強いですから、葛藤はむちゃくちゃありましたよ」

 95年秋から2017年まで育英を率いた佐々木は、“東北”のエースとして76年夏、甲子園ベスト8。早稲田大を経てNTT東北で社業に専念していた93年、すでに育英に移っていた竹田が白羽の矢を立てた。佐々木は自らの高校時代を思い出し、

「僕らが上級生になったときはやめましたけど、下級生のときは試合前の挨拶で1分くらいにらみ合っていた」。そのライバル校で母校と戦うのだから、それは葛藤もあっただろう。佐々木はその後、春夏の甲子園で1回ずつ準優勝している。

 バトンを受けた須江監督は、18年の就任以来夏3回、春2回(中止の18年を含む)甲子園に出場し、ついに全国制覇と目覚ましい成果を挙げているのに対し、東北は最後の甲子園出場が16年夏と、このところやや元気がなかった。だが。8月にOBで元巨人の佐藤洋監督が就任すると、この秋の決勝では公式戦8連敗中だった仙台育英に16年夏以来の勝利。東北大会決勝では敗れたが、センバツにはあの大震災のあった11年以来、12年ぶりの出場が確実。ライバルの活躍に刺激されたか、復活気配だといっていい。

白河の関を越え、「10秒の壁」は破れるのか

 さて……神宮大会での仙台育英は、大阪桐蔭に準決勝で敗れた。須江監督は、「優勝して、東北にもう1枠を勝ち取りたかった」と、神宮枠を獲得できなかったのが心底悔しそう。それは冒頭書いたように、東北の高校野球が伸び盛りだと感じているからだ。

 陸上競技の100メートルで、伊東浩司が10秒00の日本記録を樹立したのが1998年である。日本人でも、すぐに9秒台が出るのではないかと期待されたが、2017年に桐生祥秀が初めて10秒の壁を破るまで、20年近い時間がかかっている。だがその後は19年にサニブラウン・アブデル・ハキーム、小池祐貴、さらに21年には山縣亮太……と、それまでの停滞がウソのように次々と記録が達成された。心理学でいう、「10秒の壁」というヤツだ。

 してみると……「白河の関」という、100年以上の厚い厚い壁が破れたいま、須江監督のいうように、東北勢がどんどん育英に続いても、なんの不思議もない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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