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横浜、東海大相模と夏は8度目の決勝対決を制す。その対戦成績は……?

楊順行スポーツライター
1980年夏の横浜は、愛甲猛をエースに初優勝(写真:岡沢克郎/アフロ)

A 甲子園通算59勝30敗/優勝5回・選抜高校野球大会=1973、98、2006年 全国高校野球選手権大会=1980、98年

B 甲子園通算47勝17敗/優勝5回・選抜高校野球大会=1970、2000、11、21年 全国高校野球選手権大会=2015年

 いずれも同一県に属するこの2校、どこかわかりますか? 答えはA=横浜、B=東海大相模。神奈川の両横綱だ。この両校は、27日に神奈川大会決勝で激突。1対0でサヨナラ勝ちした横浜が、甲子園出場を決めた。

 1945年創部の横浜は、63年夏の甲子園に初出場すると、いきなりベスト4に進んでいる。東海大相模は、その63年、学校創立と同時に創部。当時、神奈川の高校球界をリードしていたのは法政二だった。52年夏の初出場を皮切りに、57〜61年の夏は5年連続出場。その間には優勝、準優勝とベスト4があり、おまけに60〜61年には夏春連覇達成と、黄金時代だ。以後、慶応、横浜、武相、鎌倉学園などがしのぎを削る60年代の神奈川に割って入ったのが、東海大相模だ。

原貢監督は6年間で二度、全国を制覇

 65年夏、甲子園で初出場優勝した三池工(福岡。ちなみに、三池工は現在まで、これが唯一の甲子園出場。つまり、勝率10割である)を率いたのが原貢(原辰徳・巨人監督の父)だ。

 2回戦では、東海大一(現東海大静岡翔洋)を11対1と粉砕しており、この戦いぶりを見た東海大学の創始者・松前重義が66年、創設間もない相模の監督に招へいする。すると相模は、69年の夏に早くも初出場を果たし、翌70年はセンバツにも初出場。そしてその夏には、イッキに全国制覇を遂げている。

 渡辺元智(当時は元)が、横浜の監督に就任したのはその2年前、68年の秋である。同校OBで、65年からはコーチを務めていた。横浜と東海大相模の両者はそこまで、夏に限れば66年の3回戦で一度だけ対戦がある。このときは横浜が、原監督就任間もない相模を15対0で圧倒した。

 だが、渡辺監督が初めて夏の采配を振った69年。決勝で激突すると、今度は相模が2対0で快勝し、初の甲子園出場を決めている。原より9歳下の渡辺は、当時25歳という青年監督だ。

「東海大相模というよりも、原さんを強く意識していました。"打倒・原貢"です」

 のち、そう振り返ったのは、若き日の屈辱が原点にあるのだろう。

 ここから、両校のライバル物語が本格的に始まる。原が東海大相模の監督を務める間、横浜は夏に辛酸をなめた。

 72年は準々決勝で敗れ、エース・永川英植(元ヤクルト)でセンバツ初出場優勝を飾った73年は、相模と当たる前の準々決勝で桐蔭学園に敗退。永川が3年になった翌74年、横浜は2年続けてセンバツに出場し、夏は原辰徳(現巨人監督)が入学した相模との対戦が注目された。事実、勝ち上がった両者は決勝で対戦。この2度目の夏の決勝対決、永川は4安打と好投したがバックの4失策もあり、横浜はまたも1対4で敗れた。翌75年も、3回戦で相模に敗戦……これで横浜は、夏の神奈川で相模に4連敗だ。渡辺は述懐する。

「あのころの神奈川には原さん、桐蔭学園に奇本(芳雄)さん、横浜商に古屋(文雄)さん……いずれも、ぶっ倒れるくらいの練習をしていた時代です。こちらも、それ以上しなければいけないと、親に申し訳ないくらいの練習をしていました(笑)」

 それでも、相模にはなかなか勝てない。74年、センバツで優勝したのは、正確には辰徳入学前だから、横浜は、辰徳在学中には一度も甲子園に出られていない。一方相模はその3年間で夏3年連続を含む4回の甲子園に出場し、75年センバツでは準優勝を果たしている。

1980〜90年代は横浜がリード

 ただ……77年、辰徳の進学とともに父・貢が東海大の監督となると、その夏こそ甲子園に出場した相模が、今度は雌伏の時代だ。入れ替わるように78年には、愛甲猛(元ロッテなど)が横浜に入学し、夏の甲子園に出場。渡辺監督にとって実は、これが初めての夏の甲子園である。そして愛甲が3年になった80年夏には、荒木大輔(元ヤクルトなど)のいた早稲田実(東東京)を決勝で破って、夏の初優勝を果たす。

 その80年は、相模にも十分力があったのだ。72年夏の甲子園に出場したときのエース・田倉雅雄が指揮官として、前年秋の県大会を優勝。春の県大会でも、決勝で横浜に勝って優勝したほどだ。両校はさらに、春季関東大会でも決勝で対戦し、今度は横浜が勝利している。

 だが、甲子園を目ざした夏、相模の3回戦。立ち上がりに浮き足立つエースに対し、田倉は平手打ちで気合いを入れた。結局10対0で完勝したが、平手打ちの場面がたまたまテレビ中継され、抗議が殺到。日本高野連の方針を受けた相模は、大会中の出場辞退を余儀なくされた。

 その夏の横浜と相模は、勝ち上がれば神奈川の決勝で激突する組み合わせで、もし相模が出場辞退していなければ、横浜の甲子園出場、ひいては全国制覇はあったかどうか……。

 その後は横浜が81年夏、85年春、89年夏と、コンスタントに出場を積み重ねていく。一方の相模は81年、87年と夏の決勝に進むが、それぞれ横浜、横浜商に敗退。センバツのかかった秋の関東大会出場も、88年に一度あるきりだ。出場辞退がケチのつき始めだったように、80年代の相模は、甲子園とはまるっきり無縁である。

 盛り返したのは90年代だ。88年には、原辰徳の同期で、東海大からプリンスホテルを経た村中秀人監督(現東海大甲府)が就任すると、91年には吉田道(元近鉄)を擁して秋の関東大会を制覇。チーム15年ぶりの甲子園だった翌年のセンバツでは、三沢興一(元巨人など)のいた帝京(東京)に敗れたが、準優勝している。

 さらに2000年には、門馬敬治・前監督のもと、センバツ初優勝。門馬監督が同校に在籍したのは85〜87年だから、現役時に甲子園出場はない。東海大を経て相模のコーチとなったのが96年で、監督就任の99年から実質丸1年でのセンバツ制覇だった。

 だが……春は日本一になった相模でも、夏はどうしても神奈川で勝てなかった。横浜は90年代に3回、神奈川を制して夏の甲子園に出場し、松坂大輔(元西武など)のいた98年には、春夏連覇さえ達成している。だが相模は、87年夏に決勝で横浜商に敗れるなど、夏はなかなか勝てない。

「神奈川にはたくさんの熱い指導者がいらっしゃいますが、僕の中では"打倒・横浜"です。つねに神奈川をリードし、時代を築いてきた学校ですし、渡辺先生(元監督)、小倉(清一郎・元コーチ)さんのつくったチームに勝ちたい思いが強い」

 とは、夏になかなか出られなかったころの門馬監督である。ついでながら夏の直接対決では、81年から06年まで横浜が8連勝だから、門馬監督が夏の出場に向け、"打倒・横浜"を掲げるのもまあ、無理はない。

 その相模が、決勝で7連敗していた夏の重い扉を、ついにこじ開けたのは10年だ。一二三慎太(元阪神)をエースに、決勝で横浜を9対3と撃破し、夏はなんと43年ぶりの出場を果たすのだ。そのまま甲子園でも準優勝すると、翌11年、2度目のセンバツ制覇に結びつけている。

 2015年7月28日には、神奈川大会決勝で相模が9対0で横浜を降した。その夏をもって勇退を決めていた横浜・渡辺監督にとって、最後の試合が好敵手との一戦というのは、なかなかに劇的だった。その夏の相模が、小笠原慎之介(現中日)らの投手陣と積極的な攻撃野球で全国制覇したのは、渡辺監督へのオマージュだったかもしれない。

 横浜と相模。両者が夏の神奈川で対戦したのは22回目で、結果は横浜の14勝8敗。決勝に限れば8回目で、対戦成績は4勝4敗のタイになった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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