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私的興味の夏の甲子園!(1) 初の4元号勝利はどのチーム? 米子東にはかつて、19歳のエースがいた

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

「早い回で点が取れていたら……」

 と、米子東(鳥取)・紙本庸由監督は言う。確かに初回の2死満塁、5回には無死一塁からヒット性の打球に一塁走者が当たってしまう守備妨害など、逸機が目立った。ヒット数は日大山形を上回る12本。だが、さらに二度の併殺などが響き、最終回は1点を返してなおも無死満塁のチャンスに、上位打線が三者三振に倒れた。チーム打率・434、地方大会4試合で33点をあげた打線は変わらずに活発だったが、145キロ超を連発する救援の滝口琉偉に、完全に力負けした。

 大正・昭和・平成・令和の4元号で、甲子園に出場している伝統校。1899年に鳥取二中として創立し、1909年に米子中、49年に現校名となり、「べいとう」の呼称で親しまれる。野球部は00年に創部し、地方大会には第1回から参加。同じ県内の鳥取西とともに、すべての大会に参加している皆勤15校のひとつだ。

 山陰唯一の、決勝出場校でもある。60年春、宮本洋二郎(元南海ほか)をエースに、高松商(香川)に敗れたものの準優勝。また、よく知られるのは56年夏のベスト4だ。このときには、19歳の長島康夫がエースとしてマウンドを守っていた。

特例で快投を続けたエース

 長島は小学3年のとき、北朝鮮で終戦を迎えた。戦後の混乱で、本土に引き揚げるまで姉を栄養失調で失うなど、過酷な1年間を過ごしながら、母、妹とともに命からがら帰国した。そこから1年間の療養を経たため、長島康夫の米子東への入学は2年遅れ。つまり、高校3年では満20歳を迎えることになる。

 規定により、本来なら3年の夏は年齢超過で出場できないはずだった。だが、夏の鳥取大会開幕の約1カ月前に、特例での参加が認められる。チームの部長が、高野連に嘆願書を出してくれていたおかげという。

 エースとしてマウンドに立った長島は、村山実(元阪神)から教わったというシュートを武器に見事地方大会を勝ち抜き、甲子園へ。全国の舞台でも快進撃は続き、初戦の別府鶴見丘(大分)戦は12三振を奪う快投で接戦をものにすると、準々決勝も、その年のセンバツ優勝の中京商(現中京大中京・愛知)に3対0と完封勝ち。いわば大横綱からあげた金星は、鳥取県のオールドファンにいまでも語りぐさだ。

 岐阜商(現県岐阜商)との準決勝は、延長10回の投手戦の末1点差で敗れたが、19歳エースの奮闘は大きな話題となった。チームが帰郷すると米子駅前には人があふれ、商店の屋根まで鈴なりで、長島は「米子にはこんなに人がいたのか」と思ったという。

 19年夏には4元号出場を果たしたが1回戦で智弁和歌山に敗れ、この日も米子東の4元号白星はならず。付け加えれば鳥取勢は、これで夏の初戦6連敗となった。

 ちなみにこの日は同じく、4元号白星のかかった静岡も敗退。この大会ではほかにも北海(南北海道)、松商学園(長野)、高松商(香川)が4元号勝利に挑戦するが、果たして一番乗りは?

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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