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スポーツ界で覇権を争うシューズのあれこれ……ナイキ編

楊順行スポーツライター
左の桐生祥秀はアシックス、右のケンブリッジ飛鳥はナイキ(写真:松尾/アフロスポーツ)

 1971年のある夜。一人の青年が、ギリシャ神話の勝利の女神を夢に見た。青年の名は、ジェフ・ジョンソン。ナイキの前身である、ブルーリボンスポーツ(BRS)の正社員第1号である。

 ジェフはそのころ、新しいシューズのブランド名に頭を悩ませていた。夢に見た、勝利の女神・ニケ(NIKE)。その翼はちょうど、シューズにデザインされたスウッシュラインのイメージに重なる。勝利の女神……いいかもしれない。これが、ナイキの始まりである(日本に浸透し始めたころ、「ニケ」とローマ字読みすると笑われたものだが、由緒としてはニケと読むほうがある意味、正しい)。

 ジェフが夢を見たのは、試製品のシューズを入れる箱を印刷するというその日。プロローグからして、なかなかドラマチックだ。

 話はさらに、62年にさかのぼる。アメリカ陸上競技の強豪・オレゴン大学で活躍し、スタンフォード大学院在学中に「日本の運動靴は、日本のカメラがドイツのカメラにしたことをドイツの運動靴に対しても成し遂げ得るか」という論文を書いたナイキ創業者の一人、フィリップ・ナイト。卒業後に出向いた神戸でオニツカタイガー(現アシックス)と出会い、その品質と低価格を気に入ると、アメリカでの販売権を取得した。

 一方、フィリップがオレゴン大で出会った腕ききのコーチ、ビル・バウワーマンは、既成のシューズの性能に飽き足らず、コーチ業のかたわら新しいシューズづくりに試行錯誤を繰り返していた。やがて60年代に入ると、ビルお手製の軽量シューズで、教え子たちが続々と新記録をマークし始める。そして64年。再会したフィリップとビルは、500ドルずつを出資してBRSを設立。いまや200億ドル以上の総資産を保有するナイキの元手は、たった1000ドルだったのだ。

元手、たった1000ドルからのスタート

 そんな草創期、フィリップは会計事務所で働きながら、父親の家の地下室から地方の競技会向けにシューズを出荷。ビルは、新たに開発したBRSのシューズをせっせと選手に履いてもらった。ようやく社員を雇う余裕ができたのは翌年で、その第1号が、ナイキの名付け親・ジェフというわけだ。

 そのころのBRSは実は、日本と密接な関係にあった。フィリップが惚れ込んだオニツカタイガーと、共同で開発を行っていたのだ。ただ、71年には提携が終了。シューズの品質を維持するために、オニツカの競合社である福岡県の日本ゴム(現アサヒシューズ)の工場で生産を開始した。つまり、一大ブランド・ナイキのDNAには、いくぶんか日本の血も入っているといっていい。

 その71年にはナイキの名称が生まれ、72年にはビルがワッフルソールを開発するなど、すぐれた開発力と高い品質は徐々に評価を得る。73年には、当時の陸上中長距離の記録保持者、スティーブ・ブリフォンテンがトップアスリートとして初めてナイキを着用。84年には、NBAシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンと契約して「エア・ジョーダン」が誕生し、爆発的にヒットしている。また同じ84年のロス五輪、マラソンで金メダルを獲得したのは、男女ともナイキを履いた選手だった。

 ナイキ誕生から半世紀が経過しようとしている、いま。厚底シューズが席巻する陸上界、さらにあらゆるスポーツシーン、そして町中にも、無数のスウッシュラインがあふれている。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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