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[高校野球]あの夏の記憶/清原3三振から4カ月後の渡辺智男は…… その2 

楊順行スポーツライター
1985年、センバツで優勝した伊野商・渡辺智男だが、夏は高知の決勝で敗退(写真:岡沢克郎/アフロ)

 1984年の夏、渡辺智男(元西武ほか)が登板しないまま高知のベスト8にとどまった伊野商だが、山中直人監督は新チームのエース・渡辺に手応えを感じていた。だから夏は、県内のライバルに対する隠し球としてあえて登板させなかったし、今村辰夫部長は親しい人に「渡辺の代で甲子園に行く」と宣言していたらしい。そして84年の秋、渡辺が練習試合を含む29試合に登板して完投23、完封4、防御率1・56という出色の成績を残し、伊野商は85年のセンバツに乗り込んでいくわけだ。渡辺は振り返る。

「テレビもほとんど見たことなかったんですが、甲子園練習で初めて入ったとき、ものすごくでかく感じました。とくに外野スタンドの大きさ。また、ファウルゾーンがやたらと広い。開会式のリハーサルでは、清原(和博・元オリックスほか)たちを見ましたよ。桑田(真澄・元巨人ほか)や河田(雄祐・帝京、元西武ほか)らも含め、前の年の高校選抜で顔見知りになっていたようで、集まって雑談をしていました。さすがにそれくらいは、雑誌などで顔を知っていましたから。僕らは気後れしてね、“おお、すごいメンバーや”と遠巻きにしていました」

 秋の四国大会では緊張もしなかったが、甲子園の1回戦ともなるとさすがにプレッシャーがあった。高知から甲子園に出場したチームは84年まで、春夏通じてのべ60校が出場しているが、初戦敗退が10校。つまり初戦の勝率は8割を超しているから、せめて1回は勝たないと格好がつかない、というのがささやかな願いだったのだ。その、東海大浦安(千葉)戦。初回に先制2ランを放り込んだ渡辺は、投球でも乗った。まっすぐは140キロ前後だが、カーブが独特だ。120キロ前後というから、体感はスライダーの速度。また、できるだけ体の前でリリースし、体重を乗せるからストレートは手もとで伸びる。かくして、抽選会のあと「よろしくねぇ〜」などと上から目線だった浦安を力でねじ伏せ、ナインは安堵した。1勝はできた、もう胸を張って高知に帰れる……というわけだ。

PLとは同じ日の試合が多かった

 その前の第1試合では、清原がホームランを放ち、大差の展開でマウンドにも立ったPL学園(大阪)が、11対1で浜松商(静岡)を下している。日程の関係上、伊野商はPLと同じ日に試合をすることが多かったのだ。準々決勝も、PLが第1試合。桑田が天理(奈良)を完封するのを、伊野商ナインはベンチ裏通路のテレビで見ていた。強えなぁ。もしオレたちが勝ったら、次はこのPLとやるのか……。なにしろ、メンバーがすごい。KKのほかにもセカンドの松山秀明(元オリックス)、内匠政博(元近鉄)、今久留主成幸(元西武)と、のちにプロ入りする選手がずらりだ。だが、天理を完封した桑田に負けじと、渡辺も西条(愛媛)を完封。ここで話は、「その1」冒頭につながっていくわけである。

 その、PLとの準々決勝だ。1回表、相手守備の乱れもあって2点を先制した伊野商。2回裏、渡辺は打席に清原を迎えていた。実際に見て、大きいなぁとは思った。ここまでの3試合、11打数5安打1本塁打と猛威をふるうスラッガー。自分も打たれるんだろうな。ただ、大きくドンとかまえる打者は、苦手ではない。それにしても、すごいヘッドスピードだ。当たったら、どこまで飛ぶんやろう……。だがこの打席、フルカウントから空振り三振にとると、考えが変わった。「清原も、やっぱり同じ高校生やったぞ」ベンチに戻るとナインにこういい、残りの全打席では三振を狙いにいこうと決めた。なにしろ、大横綱と平幕である。負けることは怖くない、目一杯行って打たれたらしゃあない……。

 さすがに5回裏、松山にホームランを打たれたときはイヤな感じがした。そろそろPL打線に火がつくんじゃないか……。だが伊野商はすぐに6回表、七番の横山博行がレフトフェンス直撃の適時二塁打を放ち、流れを渡さなかった。渡辺は以後も好投を続け、終わってみれば3対1。平幕が横綱から金星を挙げることになる。

「あとで考えてみたら、泊まっていた宿舎が、前の年の夏の取手二(茨城)といっしょだったんです。取手二はその夏の決勝でPLに勝ちましたから、ゲンはよかったですよね」

清原がかすりもしなかったトミオの15球

 渡辺と清原の対戦はこうだ。走者を一人置いた4回の2打席目はボールスリーとなるが、フルカウントに整えてから最後はまっすぐを空振り三振。第3打席は四球だったが、8回の第4打席は、初球カーブを空振り。2球目、まっすぐを空振り。そして3球勝負は146キロストレートで、清原はこれを呆然と見逃すしかなかった。3打数3三振。バットは浮き上がるストレートの下を通り、ファウルすら1球もないほど完璧に押さえ込まれた。あまりの悔しさに清原は、試合終了後、富田林市のPLの室内練習場に戻り、悔し涙を流しながら夜中まで打撃練習を続けたという逸話が残る。

 83年夏の甲子園では、池田(徳島)の水野雄仁(元巨人)が清原から4三振を奪っているが、このときの清原はまだ1年生。しかも水野は、フォークなどの変化球も駆使した。その点渡辺は、ほぼストレート勝負である。それでも、翌年プロ野球で31本塁打を放つ怪物・清原のバットに、かすらせもしなかったのだ。

 3三振、トミオの15球。その衝撃からすれば、翌日、帝京(東京)との決勝は失礼ながら付け足しだ。事実後年になっても渡辺は、「あのPLとの決勝戦、すごかったですね」と人から声をかけられた。実際は準決勝なのだが、それほど鮮烈な印象だったということだ。渡辺自身も、清原からの3三振があったから、のちにプロ入りできたと思っている。その夏は、甲子園に進めなかったからなおさらだ。

 だから、思う。もし……85年夏の高知大会で伊野商が高知商との決勝を制し、甲子園でも勝ち進み、高知商と同じクジを引いていたとしたら……渡辺と清原が、準々決勝で再び対戦してもおかしくなかったのではないか。そう。清原が、中山裕章(元中日ほか)から特大のアーチを架けた、あの一戦である。だが、渡辺はサラリといなした。

「いやぁ、勝ち逃げだからいいんじゃないですか。センバツの3三振はたまたま。もともと、目をつぶってとにかく思い切り投げるだけ、という感覚でしたから。全打席がストレートの四球という可能性もあれば、3球三振を取れる可能性もあった。もう一度やったら、絶対勝てへんかったやろと思います」

 伊野商を卒業後、渡辺は愛媛の社会人チーム・NTT四国に入社した。3年後には、ソウル五輪出場を手みやげに、ドラフト1位指名で西武に入団。すでに西武でスター打者となっていた清原は「別のチームに行かなくてよかった」と迎え、対戦しなくてすむことを喜んだ。渡辺は「忘れられていなかったんや」と感激した。

 忘れていたのは、「その1」冒頭のエピソードの続き。タクシーを降りるとき山中監督は、タクシー券に「伊野商」とサインをして手渡した。残念なのは、それを受け取った運転手氏の表情を確認できなかったことだそうだ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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