Yahoo!ニュース

[高校野球]あの夏の記憶/歴史的ドンデン試合・2006年夏、智弁和歌山vs帝京 その1

楊順行スポーツライター
1980年センバツでの帝京・前田三夫監督。若いですねぇ(写真:岡沢克郎/アフロ)

「今年の夏は、おもしろかったでしょう」

 取材に出向くと、帝京・前田三夫監督からいきなり切り出された。2006年のことだ。その夏のクライマックスは、斎藤佑樹(現日本ハム)の早稲田実(西東京)と、田中将大(現ヤンキース)の駒大苫小牧(南北海道)が決勝で引き分け再試合。それ以前にも、絵になるキャラクターがいて終盤の大逆転があって……と、確かにおもしろい大会だった。そして……その大会中、史上最高ともいえる大活劇の一方の主役を務めたのが、ほかならぬ前田監督の帝京(東東京)だった。

 第88回全国高校野球選手権大会第12日、準々決勝第2試合。帝京は、大会タイ記録(4選手が打ったのは史上初めて)の4ホーマーと大田阿斗里(元オリックスほか)、垣ヶ原達也の継投で如水館(広島)に圧勝し、3回戦は延長10回、福工大城東(福岡)を振り切ってベスト8に進んできた。相手は、智弁和歌山。02年の夏にも準決勝で対戦し、そのときは智弁が高市俊(元ヤクルト)のいた帝京を6対1で一蹴している。前田監督によると、「あの年は五分と五分の試合になると思った。ただ今年は、チーム力では智弁が上です。よくて四分六、なにか手を打たないと勝負にはならない」。

 智弁和歌山の打力は、確かに驚異的だ。日ごろからマシンを160キロにセットし、それに振り負けないスイングを身につけてきた。とくに八重山商工(沖縄)の快腕・大嶺祐太(現ロッテ)からの一発も含め、3本塁打の広井亮介で象徴される長打力。前田監督は、1年生・高島祥平(元中日)を先発させ、なんとか後半勝負へ、と目論んだ。

なんとか後半勝負に、という目論見

「まともに力勝負を挑んだら勝てません。大田先発、垣ヶ原とつないでも、その2人でリードを許したら、中盤で勝負が決まってしまいます。ですが1年生の先発なら、多少リードされても、選手たちは“まだまだ、勝負は後半”という意識で戦える。うしろには力のあるピッチャーがいるわけですし、また、智弁のピッチャーならある程度点は取れるとも踏んでいました」

 エース・大田はこのとき2年生だが、1年の夏から強豪のマウンドに立ち、球速は147キロと前田監督が期待を寄せる素材だ。ただ、精神的にひ弱な面があり、先輩に叱責されて涙を流すのをなだめ、すかして育ててきた。東東京大会でも、国士舘との決勝では1回もたずに垣ヶ原に継投。結局この試合を終盤で逆転し、4年ぶりの甲子園につなげたが、まったくもって手を焼かせる選手なのだ。1年生・高島の大舞台での先発には、大田のハートの弱さという事情もあっただろう。

 だが、高島は初回、点こそ与えなかったものの、すべてバットの芯でとらえられた。つかまるのは時間の問題か……案の定2回には、智弁の七番・馬場一平にスリーランを浴びる。「智弁のすごさは、下位打線でも一発の力があるところ」という危惧が現実になり、前田監督は早くも垣ヶ原にスイッチした。4回には2点を返したが、その裏、垣ヶ原がまたも馬場に、そして二番・上羽清継に一発を浴び、この時点で智弁の6対2。7回には、広井が大会4本目の2ランを放ち、差は6点に広がった。しかし帝京も8回、塩沢佑太の2ランで2点を返す。さらに、7回途中から投入した大田も、智弁の打者7人に四球をひとつ与えただけの好投。プロセスはともかく、後半勝負という青写真どおりの展開にはなっている。

 9回。最後の攻撃を前に、前田監督は迷っていた。先頭打者は、甲子園でノーヒットの大田だ。4点差を追いつくのは不可能じゃないが、それには先頭打者の出塁がほしい。代打か。ただし、代打を出してかりに追いついたとしても、今度はだれに投げさせる? 大田はいい投球をしているし……。思考が堂々巡りし、守備位置からベンチに戻ってくるナインを迎えても結論は出ない。そこへ、円陣の3年生が声をそろえた。「沼田! 沼田、行けよ!」。故障、あるいは守備面での難から出場機会を減らし、この夏は不振で一度も打席に立っていない沼田隼。だがもともと、1年から試合に出ていた長距離砲で、前年は主軸だったのだ。よしっ! 前田監督も、代打を決断した。

「つなげ、つなげ!」

 智弁のマウンドには、4回途中からリリーフした竹中孝昇。よ〜し! ただし、沼田のこの夏初打席は、気合いが空回りしてか平凡なサードゴロに終わる。ううん……前田監督は天を仰いだが、その沼田がのち大仕事をしようとは、この時点ではベンチ、そしてスタンドの観客のだれもが、想像すらしていない。

 ともかくも、1死。だが帝京ベンチは「つなげ、つなげ!」と、ひとつになって声をそろえる。トップに戻って不破卓哉が、セカンドの左をゴロで破る。二番勝見亮祐が死球で一、二塁。三番・野口直哉主将が空振り三振で2死。智弁は勝利まで、帝京は敗戦まであと一人だ。4点差。それでも「つなげ、つなげ!」。打席には、2年生ながら四番を打つ中村晃(現ソフトバンク)。東東京大会でも、そして甲子園でもホームランを打つなど、長打力もある。だが、かりに一発が飛び出てもまだ1点差で、むしろ塁上に走者がいなくなる分、相手も楽になる。長打はいらない。コツコツと1点ずつ返そう。

「つなげ、つなげ!」

 そして……つないだ。当たりはよくないが、中村の打球がセカンドを抜け、不破生還で1点。塩沢、三遊間突破。満塁で雨森達也も三遊間を破り、2点目。我妻壮太がショート左に内野安打で1点差。なおも2死満塁、帰り支度をしかけたスタンドが、浮かせかけた腰を下ろして身を乗り出すようだった。打席には杉谷拳士(現日本ハム)。「クソ度胸のある子」という前田監督が、1年生をレギュラーに抜擢したのは、森本稀哲(元西武ほか)以来だという。

 2回戦で打球を受け、右頬を骨折しながら出場を続ける杉谷に、野球の神がごほうびをくれたのか。2球目を振り抜くと、打球はこれも三遊間を抜け、2人がホームインする。球場全体がふるえた。なんと、9回2死という絶体絶命から6連打、5点を奪った帝京が逆転に成功するのだから。クリーンヒットは1本もない。たたきつけ、野手の間を抜けていく泥臭い当たりばかりだ。「見事でした。とにかくベンチのなかで“つなげ、回せ”という声が飛び交っていたのが印象的。僕はあのときが甲子園21回目でしたが、甲子園全体が叫んでいるような、あのムードは初めて」。前田監督はのち、振り返っている。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

楊順行の最近の記事