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[高校野球]あの夏の記憶/すごすぎてマンガにもしにくかった……怪物・江川卓 その2

楊順行スポーツライター
その注目度も怪物級だった、作新学院時代の江川卓(1973年)(写真:岡沢克郎/アフロ)

 栃木工に進んだ石川忠央さんが江川卓(作新学院)と再会するのは、1971年秋。新チームになっての練習試合だった。中学時代から1年ぶりの対戦。試合前のキャッチボールを見て驚いた。江川は、その場で軽く投げても、優に100メートルは届くのである。それも、糸を引くような弾道。コンビを組むキャッチャーは、助走をつけて山なりに投げても、ワンバウンドかツーバウンド。距離を縮め、塁間程度で投げるボールを横から見ると、一人だけ明らかにボールの回転が違った。物理的にはあり得なくても、ホップするのがわかるのだ。

 その試合の石川さんは、三番。

「一、二番が三振三振。ふつうの振りだしでは、打てないんですよ。私は中学時代の経験があって、多少タイミングのとり方がわかっていました。最初から、トップの位置で構えるんですよ。それでないと、とてもついていけません。ただ、いざ打席に立ったら、タマの質が違いましたね。体が大きくて威圧感もあるし、これは打てねえな……。プレートの後ろから投げてくれたとしても、当たりそうにありませんでした。たまたま無我夢中で振ったら、バットに当たってくれてライト線の二塁打になりましたが、結局ウチはそのヒット1本だけです。三振は、いくつ取られたか……」

ファウルチップが焦げ臭い?

 実際、その秋の江川はモノが違った。公式戦では栃木県大会4試合に投げ、ノーヒット・ノーランを含む30イニングを2失点、38三振。優勝して進んだ関東大会1回戦(対前橋工・群馬)では、1回2死から10者連続三振という離れ業だ。だが、頭部に死球を受けて5回表で退場。連続三振、ノーヒット・ノーランが途切れただけではなく、チームも逆転負けして翌春のセンバツ出場が消えてしまう。このあたりの江川は、なんとも運に恵まれていない。

 石川さんは、高校2年の栃木大会でも作新と対戦した。江川は大田原との初戦でノーヒット・ノーラン、続く石橋戦で完全試合を達成し、2試合で無失点はおろか、無安打を継続しての3試合目だ。その試合で栃木工の四番を打っていた石川さんは、いまでも信じられないことがある。

「ある打席、たまたまドンピシャのタイミングだったんです。だけど江川の球はふつうよりホップするからでしょうね、バットの上っ面に当たり、ファウルになった。当時は木のバットでしょう。バットから、焦げ臭いにおいがしたんですよ。摩擦で、ボールの革かバットの表面かが焦げたんでしょうけど、いったいどれだけのスピードがあればそんなことが起きるのか……」

 結局この試合も、江川はノーヒット・ノーランを達成する。バットを焦がすほど、べらぼうな摩擦係数を持ったボールである。27回を無安打で奪三振45、「すごすぎて、マンガのモデルにもならない。江川のことだ、とすぐに読者にわかってしまう」と話してくれたのは野球マンガの大家・水島新司さんだが、ノーヒット・ノーラン程度では、もはやだれも驚かなくなっていた。

 次戦、北関東大会出場(当時は1県1代表ではない)をかけた準決勝の相手は、金久保孝治さんのいる小山だった。江川は、無安打を継続したが、味方も1点が取れない。0対0のまま延長に入った時点で、連続無安打は36イニングに延び、なんとノーヒット・ノーラン4試合分である。そして10回裏2死から初安打が出て、無安打記録が途切れた11回裏だ。

「四番の私が先頭打者で、ヒットで出たんです。バントや内野安打で1死二、三塁になり、スクイズでサヨナラ勝ち。ホームを踏んだのは、私でした」(金久保さん)

 北関東大会にも出場ならず……どれだけ劇画級の投球を見せても、やはり甲子園が遠い。それも、もしかしたらユニフォームを着ていたかもしれない小山というチームに敗れるのが、江川という怪物の巡り合わせだった。

145イニング無失点……!

 江川を知る人は、この2年夏から秋にかけてが絶頂期だったという。新チームになってからは、ハデな記録こそないものの、相手が強ければ強いほど力を発揮し、点を与えなかった。関東大会準決勝では、銚子商(千葉)を1安打完封、20三振。決勝は、翌春のセンバツで優勝する横浜(神奈川)を4安打完封16三振。そして「その1」の冒頭にあるとおり、73年のセンバツで、江川の作新はようやく初めて甲子園に出場するわけだ。

 73年夏も江川は、甲子園にコマを進めることになる。恐るべしは、栃木大会だ。招待試合の連続で疲弊していたといわれながら、5試合44回を投げて無失点どころか、被安打さえわずか2でノーヒット・ノーランがなんと3試合。そのうち2試合は無四球で、それぞれ振り逃げ1、失策2の走者を許したのみだから、実質は完全試合といっていい。甲子園でも、無失点記録は柳川商(現柳川・福岡)との6回まで続いて145回まで延び、この試合は延長15回で競り勝ち。ただ2回戦では、銚子商に延長12回サヨナラで敗れている。あまりにも有名な、雨中の押し出しだ。江川自身が苦手としていた雨の試合で、野球好きな詩人・サトウハチローも『この日から雨がきらいになった』と書いた。

 結局、江川が甲子園で投げたのは6試合にすぎない。桑田真澄(PL学園・大阪、元巨人ほか)の23試合には遠く及ばず、松坂大輔(横浜・現西武)、斎藤佑樹(早稲田実・東京、現日本ハム)が登板した11試合の半分強だ。彼らのような全国制覇もむろん、ない。ただ特筆すべきは、6試合59回3分の1を投げて奪三振92、自責点3、防御率0・41という破天荒な通算記録。そして……打倒江川に知略をめぐらしたチームが、ことごとく全国制覇していることだ。

 73年のセンバツは「特注の長いバットで降り込み、打撃投手は重ねた畳の上から投げさせた」渡辺元(現・元智)の横浜。73年夏は、「ヘルメットを目深にかぶり、庇から上の球は手を出さない」ことを徹底した迫田穆成の広島商。そして74年夏は、しつこいほど作新に練習試合をせがみ、なんとか攻略法を探した斉藤一之の銚子商……。いずれの名将も、「あの投手を打たなければ、優勝はない」と判断し、重ねた鍛練が結果として日本一に結びついたのだ。そんな標的になる投手は、二度と出てこないかもしれない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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