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【高校野球の歴史発掘】残塁ゼロながら7得点で勝利した明徳義塾

楊順行スポーツライター
当時のスコアブック。ね? 残塁の記号がないでしょう(写真/筆者)

 たとえば2012年夏には、松井裕樹(桐光学園・神奈川、当時)が1試合22三振というバケモノのような記録を打ちたて、17年夏には中村奨成(広陵・広島)が大会6本塁打という破天荒な打棒を見せた。18年夏には住谷湧也(近江・滋賀)が更新した大会最高打率は.768、かと思うと19年のセンバツでは、明石商(兵庫)の来田涼斗が、史上初めて先頭打者アーチを架けた試合でサヨナラ弾。近年の高校野球は、記録ラッシュだ。それも、破られることはないのでは……というべらぼうなレコードが、簡単に誕生する。この夏にも、敦賀気比(福井)の杉田翔太郎が、大会わずか6度目のサイクル安打を記録した。

 それもこれも、練習方法や指導理論の進化によって、高校生の投打の技量がずっと右肩上がりだからだと思う。だけど、ちょっとやそっとでは破られそうもない記録があるのをご存じか。残塁にまつわるもので、そもそも残塁とは、各イニングが終了した際に、アウトにならずに残っていた走者に記録されるもの。出塁しなければ残塁が記録されようもないから、一般的に、打線が活発な試合ほど残塁が多いと考えていい。

 逆に、打線が沈黙したときほど残塁は少なくなりやすい。1人の走者も出さない完全試合を考えればわかりやすく、その場合の残塁はゼロですね。夏の甲子園で初めて残塁ゼロを記録したのは、1933年。中京商(現中京大中京、愛知)・吉田正男にノーヒット・ノーランされた善隣商(満州)だ。あるいは93年夏の修徳(東東京)は5安打で残塁ゼロの1対8と、この大会で優勝する育英(兵庫)に完敗している。ただ、残塁ゼロで勝ったチームもあって、84年夏の法政一(現法政・西東京)がそれ。境(鳥取)に9回終了までノーヒット・ノーランに抑えられていたが、0対0の延長10回、初安打となるサヨナラホームランで決着をつけた。ホームランのほかには、四球の走者が一人だけ出ていたが、それも盗塁死したため「残塁ゼロでの勝利」が記録されたわけだ。

残塁ゼロで打ち勝つという禅問答

 ことほどさように、残塁ゼロというのはロースコアと相場が決まっているのだが、夏の甲子園史上9回目の残塁ゼロチームだけは違った。2002年、優勝した明徳義塾(高知)である。3回戦で常総学院(茨城)と対戦した明徳は、やや旗色が悪かった。4対6と2点ビハインドの8回裏も、すでに2死走者なし。一番・山田裕貴の打球も、なんでもないサードゴロだ。チェンジか……明徳・馬淵史郎監督がそう思った瞬間。相手サードの送球が低く、山田は一塁に生きることになる。

 次打者の沖田浩之は考えた。俊足の山田さんを警戒して、バッテリーはまっすぐ中心の組み立てをしてくるはず。それでも馬淵監督は、盗塁のサインを出そうと考えていた。かりに山田がアウトになっても、9回は沖田から攻撃を始められる……そこに、まっすぐが投じられる。きた! 161センチの小さな体で沖田が振り抜くと、打球はライトのポール方向に伸び、ポールの内側を通ってスタンドへ。沖田の公式戦初ホームランで、明徳は同点に追いついた。

 かつて馬淵監督は、この試合のことをこんなふうに話していた。

「8回で2点差ゆうても、まだこれから……と思っとったね。あの時点では良介(森岡、元ヤクルトなど)の打順も残っとったし、負ける気はしなかった。センバツのあと甲子園に行くまで、あのチームは52連勝ですわ。県大会では準々決勝の岡豊戦、同点の9回裏無死満塁をしのいで勝ったり。そういう運のあるチームやった。もちろん、力もあったんですよ」

 そして打席には、その森岡。打席に向かう背中を見るうち、馬淵監督にはなぜかピーンときたという。コイツが、決めるやろうなぁ……。初球だ。森岡自身が「ストレートだと思った」ほど、変化に乏しいシンカーを、美しいスイングがはじき返す。うっとりするような弾道が、右翼席中段に飛び込んでいく。2者連続の、逆転ホームランだ。2死走者なしで失策の走者を得てから、わずか3球という鮮やかすぎる逆転劇……。結局明徳は、7対6で勝利を収めることになる。

 そして……この試合の明徳は、7得点しながら、なんと残塁がゼロなのだ。2回には、泉元竜二が2点二塁打を放つが、三塁を欲張ってアウト。同じ回、2死からヒットで出た池田直也が盗塁死。6回にも、2死からヒットで出た筧裕次郎(元オリックスほか)が盗塁死。4対6で迎えた8回裏も沖田の同点2ラン、森岡の逆転ソロアーチ。8回の攻撃で打者31人=打者アウト21+走塁死1+盗塁死2+7得点は、確かに残塁ゼロだの計算だ。

「終わってみたら残塁ゼロいうだけでね、特別な感慨はないよ」とは馬淵監督。もしかしたら、残塁ゼロの勝利はありうるとしても、残塁ゼロで7得点というのは、今後ちょっと達成されることはないんじゃないか。ちなみに、胸のすくような逆転で常総戦を制した明徳は、準々決勝で広陵(広島)、準決勝で川之江(愛媛)、決勝で智弁和歌山を倒して、ついに全国制覇の野望を遂げることになる。松井秀喜の敬遠騒動から、ちょうど10年後の夏だった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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