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30年前の10月14日、近鉄優勝! その1年前のドラマを覚えていますか?【2】

楊順行スポーツライター
梨田昌孝は、2012年には日本代表のコーチも務めた(写真:アフロスポーツ)

 1988年10月19日。近鉄にとってのシーズン129試合目、ロッテとのダブルヘッダー第1試合だ。3対3で迎えた9回表2死二塁、近鉄はここで勝ち越さなければ優勝の可能性が消える場面で、梨田昌孝を代打に送った。待ちかねて打席に入った17年目のベテランは、このシーズン限りの引退を決めていた。手術した肩の具合が思わしくない。本来なら前年で退くつもりだったが、仰木彬新監督の就任にともない、選手のまとめ役として引退を1年延ばしていた。その129試合目である。梨田にとってはもしかしたら、プロ生活最後の打席になるかもしれない。それが、優勝の望みをつなぐ緊迫した場面とは……。かつて話を聞いたとき、梨田はこんなふうに振り返っている。

「もちろん、最後の打席かも……という感傷的な気分もありましたけど、(佐藤)純一がアウトになってむしろ吹っ切れていましたね。本塁突入を自重していれば1死一、三塁で、当然、2死二塁よりも得点確率は高い。でも、あとがない場面になって、かえってホッとしたんです。実は17日の阪急戦、2点を追う7回1死一、三塁で代打に出て三振しているんですよ。あそこで打っていれば、という思いを引きずっていた。だからそれと同じ状況よりも、あとのない2死二塁のほうが開き直れたんです、振るしかないんや、と。

 早く代打を告げてくれ、と入れ込んでいたけど、仰木さんが間をとってくれたのでやけに落ち着けました。きたタマを振ってやろう、とにかく振らなければ当たらないんだからと、単純な発想になった。舞台は整った、思いきり振れれば結果はどうでも本望やないか、と。しかもピッチャーは、苦手だった小川(博)に代わって相性のいいウシ(牛島和彦)です。歩かされるかな、という気も多少はありましたが、ウシならまあ逃げんと勝負してくるやろう、というのはありました」

ウシなら逃げんと勝負してくる

 一方、マウンドの牛島和彦。梨田を歩かせて一、二塁にしても次の打順は八番だから、その手もある。いや、塁を埋めるほうがまずはセオリーだ。だが……これも、牛島の回想を聞こう。百戦錬磨の抑え、しかも屈指の理論派は、

「抑えたら近鉄ファンに恨まれ、打たれたら西武ファンに恨まれる、複雑な心境です。ただ、梨田さんの引退を薄々は知っていましたし、もしかしたら最後の打席かもしれない。それなら、歩かせるなんてヤボじゃなく緊張する勝負をしたい。それでもし梨田さんがアウトになったとしても、近鉄ファンも納得するでしょう。かりに歩かせて、次のバッターを抑えたとしても……つまらんペナントレースになるやないですか。ここまで盛り上がったのはなんやったんや、と。

 自分たちの優勝がかかっていたら、絶対に勝負はしませんよ。もっと時間をかけて、梨田さんを歩かせて1アウトをとりにいく。また、(降板した)小川が確かこの試合まで9勝なんです。もし彼に2ケタの勝ち星がかかっていたら、やっぱり勝負しなかったでしょう。だけど小川は同点で降りているので、勝ちがつくことはありえない。僕にとって、納得のいく勝負ができる状況だったわけです」

 だから、勝負や……と肚をくくった牛島。一方、こんにゃく打法と称された脱力フォームで打席に立つ梨田は状況を確認した。二塁ランナーの鈴木(貴久)は、足は速くはないが走塁のカンはいい。ただ、外野の守備位置がずいぶん浅いな……。初球がボールになると、牛島のコンピューターが目まぐるしく回転を始めた。ボールが先行したら、外の変化球でカウントを整えるのが自分の投球パターンだ。もし多少甘くなったとしても、打者心理として、ひっかけてゴロになるのがもったいないから、見逃してくれるのだ。だけど梨田さんのようなベテラン、ましてキャッチャーというポジションともなると、そこは百も承知。もともとベテランは、ゆるいタマにはうまく対応してくる。よし、ここは逆をついて内角にシュート。もし打って詰まってくれれば理想だ……。

よしっ! 内角、シュート

 その通り、ワンボールになると梨田も、外の変化球を頭に描いた。そこへ投じた、牛島のインサイドへのシュート。ただ、「きたタマを振ってやろう」という梨田のバットが、素直に反応する。牛島の狙い通りどん詰まりだったが、打球はふらふらと上がってセンター・森田芳彦の前に落ちた。二塁から鈴木が懸命にホームインし、出迎えた中西太コーチと抱き合い、転げ回り、全身で喜びを表現する。

 牛島は確かに、詰まらせたのだ。だがその分打球速度が遅く、浅い守備位置でも鈴木が生還するためのコンマ何秒かを稼いでくれた。近鉄、最後の最後に勝ち越し……。送球の間に二塁ベースに達していた梨田は、生まれて初めてのガッツポーズをしていた。プロ874本目のヒット、現役最後かもしれない打席は、あまりにもドラマチックだった。よく、落ちてくれた。お客さん、ベンチの選手、裏方さん……みんなが、打たせてくれたんや。梨田はいう。

「ベンチに戻ったら(直前に走塁ミスで憤死した佐藤)純一が、ボロボロボロボロ泣きよってねぇ、”ありがとうございますっ“って。それにしても、ウシのシュートは大正解やったと思いますよ。バットが折れんのが不思議くらいの、どん詰まりだったですから」

 丁々発止の牛島。

「詰まらせたところまでは正解なんですけど、森田は本来内野の選手で、9回から守備についたそこに、たまたま打球が飛んだ。ちょっとスタートが遅れたように見えました。本職の外野だったら、捕れていたかもしれません。だからね、僕は思うんですよ。この日は、神様がおもしろくしたんじゃないかって。僕が梨田さんと勝負したのも、たまたま条件が整っていたからですし……」

1988年10月19日 川崎球場 第1試合

近 鉄 000 010 021

ロッテ 200 000 10

(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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