Yahoo!ニュース

平成の高校野球10大ニュース その2 1996年/奇跡のバックホーム

楊順行スポーツライター
1996年夏、「奇跡のバックホーム」はきっと、写真右端あたりから投じられた(写真:岡沢克郎/アフロ)

 そのとき捕手の石丸裕次郎は、

「アイツ、またやった」

 と思ったそうだ。ライト・矢野勝嗣のホームへの送球が、上ずった軌道に見えたのだ。

 1996年8月21日、第78回全国高校野球選手権大会決勝は、熊本工と松山商(愛媛)という古豪の顔合わせとなった。長い歴史を持つ両校だが、甲子園で対戦するのは初めてのことだった。試合は、松山商が9回裏2死まで3対2と1点リード。だが、松山商が優勝まであと1アウトという土壇場で、熊本工の1年生・沢村幸明に起死回生の同点ホームランが出て、延長戦にもつれ込んだ。押せ押せの熊本工は10回裏、先頭の星子崇が二塁打で出てバントで三進すると、松山商は続く打者2人を敬遠し、満塁策を取った。1点取られればおしまいの局面だから、塁を埋めて守りやすくするのは当然だといっていい。1死満塁……。

 そこで、ピッチャーからライトに回っていた新田浩貴に代わり、ポジションについたのが矢野だ。背番号は9である。だが松山商は、新田と渡部真一郎という2人の投手のうち、どちらかがライトに入ることが多い。この大事な決勝でもここまで、矢野はベンチで戦況を見守っていた。ようやくの、出番。

代わったところにボールが飛ぶからな!

「1死満塁になって、"矢野、行くぞ!"といわれたのは覚えています。みんなが"代わったところにボールが飛ぶからな"と声をかけてくれたことも……。ただ、ライトの守備位置に走っていくときは不思議と冷静でした。サヨナラのピンチというより、決勝に出られるんだ、という思いが強かった。風の向きを確かめながら、スーッと自然に守備につくことができましたね」

 というのは後年、取材したときの矢野の回想である。そして……本当に、代わったところにボールが飛んだのだ。しかも、1球目。熊本工の三番・本多大介のバットがスライダーに鋭い金属音を発し、打球がライトの頭上に伸びていく。長打コースか? 少なくとも犠牲フライには十分おつりのくる当たりだ。マウンドの渡部は負けを覚悟し、熊本工ベンチはサヨナラを、そして初めての優勝を確信した。矢野は、打球の角度を見て一度は背走したが、右から左の強い浜風にぐんぐん押し戻されるのを見て、今度は必死に前進する。捕れなかったらシャレにならないのだ。そして「不思議と冷静だった」という頭では、こう計算していた。

 打球が戻されているといっても、ライトの定位置よりは深い。カットマンを経由しては、絶対にホームには間に合わない。アウトにできるとしたら、ダイレクトに捕手に返球するしかない。それだってほんのわずかな確率だけど、前に出ながらの捕球だから、投げる勢いはついている。どうせサヨナラ負けをするんなら、思い切って放ってやれ。そうやって放たれた白球は、冒頭のように、捕手の石丸からは一瞬、高くそれたように見えた。

 外野からのバックホームは、低い軌道のワンバウンドが基本だ。だが日常のノックでも矢野は、なまじ肩に自信があるからか、ノーバウンドの返球を試みて捕手のはるか上に高投し、沢田勝彦監督にカミナリを落とされることがあった。そのシートノックでは最後、ライトの矢野がピタリと返球を決めれば終わりなのだが、そういう場面でミスを犯すと、無情なことにノックはまた一からやり直しとなる。矢野のやらかすミスのせいで、ナインは何度、疲れた足を引きずって守備位置に戻ったことか。石丸が「またやった」と思ったのも無理のない、矢野の日常なのだ。

 だが、である。矢野が投じた白い矢は、やや山なりながら、ホームで構える石丸に向けて正確な弧を描いた。またやった……と思った石丸も、あれ? あれあれ? もしかするとアウトにできるかも……と必死でボールをつかむ。捕球したそのミットは、ちょうど三塁から走ってきた星子の顔のあたり。タイミングは微妙。しかし、球審の右手が上がる。アウト、アウトだ。

 サヨナラ負けを覚悟したのに、劇画のようなダブルプレーである。やった、やったやった! と叫び、跳びはねながら三塁側ベンチに戻る矢野に、だれもが抱きつく。ふだんの練習でもできないことを、万に一つの確率のビッグプレーを、絶体絶命の場面でやってのけたのだ。九死に一生を得た松山商は11回表、その矢野の二塁打から決定的な3点を挙げ、熊本工を寄り切った。決勝のホームを踏んだのも、矢野である。この日の矢野には、なにかが宿っていたとしかいいようがない。

ふだんのノックならやり直し

「畏れ多いけど、あのバックホームのあとは、(沢田)監督にも抱きついているんです。それだけ、自分のやったことに興奮していたんでしょう。もう1回やれといわれてもできないプレー。でもマツショウ(松山商)のノックなら、あのバックホームは山なりすぎて、きっと一からやり直しですよ」

 矢野が、そう笑ったことを思い出す。

 蛇足ながら……この96年は、夏の甲子園前にアトランタ五輪が開催された。サッカー日本代表がブラジルに1対0で勝利し、"マイアミの奇跡"といわれた大会。僕はその試合も、現地で取材していた。この夏に起きたふたつの奇跡を目の前で見た人間は、世界でもそれほどいないのではないかとひそかに思っている。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

楊順行の最近の記事