若生正廣氏勇退。東北高時代のダルビッシュとの秘話 その1

2012年、ダルビッシュ有はメジャー1年目で16勝(写真:ロイター/アフロ)

「(ダルビッシュ)有がさ……モデルになりたい、といいだしたことがあるんだよ」

 記憶は定かではないが、たぶんダルビッシュが高校2年の話だという。寮での食事中、なかなか箸が進まないことに気がつき、「なんでだ?」と聞いてみると、最初は口ごもっていたが「モデルになりたいんです。だから、あんまり食べ過ぎたくない」。多少のことには動じない若生氏も、これには心底驚いた。

 なにしろダルビッシュは、ボーイズリーグ・全羽曳野時代から40を超える高校が勧誘に訪れていた逸材だ。すでに191センチに達していた長身から肩、ヒジ、手首をきれいにしならせ、中学生で140キロ近くを投げていたのだ。

 自身ピッチャーとして甲子園の土を踏んでいる若生氏の目にも、とてつもない怪物に映った。

「なにしろ、スピードだけじゃないんだよ。まっすぐの質や球威はもちろん、真横に滑るスライダーなど、変化球のキレがすごい。大型のわりには器用で、フィールディングもサマになっている。あんなピッチャーとは、初めて出会ったよね」

 東北高に進学すると無理をさせず、大事に育てた。成長痛を抱えるダルビッシュは、精巧なガラス細工のようだったためだ。それが奏功し、高校2年になる03年には、すでに最速150キロ近い豪腕投手としてセンバツに出場している。もっといえば夏は、決勝で常総学院(茨城)に敗れたものの、準優勝を飾っているのだ。その高校2年のいつかの時期に、ダルビッシュはなんと「モデルになりたい」といいだしたのだという。

おめ、モデルなんて……バカいうな

 確かに、クールな二枚目で手足が長く、モデルにしたいようなスタイルではある。だが、まさかモデルと野球が両立できるわけもない。多少見てくれのいいモデル候補の高校生はゴマンといても、日本一、あるいは世界一の投手になりうる才能は10年、20年に一人いるか、いないかだ。

「おめ、バカいってんじゃないよ。有が子どものころにプロ野球にあこがれたように、いまやお前が、野球少年のあこがれなんだよ」 

 若生氏、独特のだみ声で必死にくどき、なんとかダルビッシュを心変わりさせたが、

「あのとき、うまく説得できなかったらと思うとぞっとするよね」

 と苦笑していたものだ。とにかくダルビッシュは、こっちが思いもよらないことを考え、突拍子もないことをするという。高1だった02年、初めての夏にチームが宮城県の準々決勝で敗退すると、

「先生、ちょっと大阪に帰っていいですか」

 甲子園に出られない喪失感。2学年上で、2人部屋にともに暮らしていた高井雄一(現ヤクルト)が引退し、部屋で1人になった寂しさ。そもそも、大阪の親元を離れて新しい環境で暮らすストレスには、15歳の里心が募るだろう。とはいえ、だ。すぐに新チームはスタートするし、1カ月もすれば秋の宮城県大会が始まる。練習にエース候補を欠くと、チームづくりは大幅に計算が狂いかねない。だが若生氏は、

「いいよ、親孝行をしてこい。好きなだけ休んでこい」

 と送り出した。在学中に残された甲子園のチャンスは4回。ことに新チームにとっては、夏休みの練習はまたとない貴重な成長の、鍛錬の時期だ。里帰りを申し出たダルビッシュ本人も、まさか許可されるとは思っていなかったようだ。

 若生氏はのち、ちょっと大胆だったかもな……と振り返っている。

「だって里心がついて、行ったきり帰ってこなければ大ごとでしょう。だけど、ずっともやもやした気分でいるよりはリフレッシュしたほうがいいと思ってね。残ったメンバーで普通に練習しながら、内心はいまかいまかと有の帰りを待っていて、1週間で戻ってきたときには、ホッとしたね。それとずいぶんすっきりした表情になっていたので安心した」

 実家に里帰りしたり、モデル志望に心が動いたり。ほんのちょっと、どこかで歯車が狂っていたら、MLBで50勝以上している日本屈指の大投手・ダルビッシュ有は存在していないかもしれない。

 若生氏に、ダルビッシュの高校時代の話をじっくり聞いたのは、彼がメジャーリーグに挑戦する12年のシーズン前。

「メジャーでも、最低15勝はできるね」

 という予言通り、1年目のダルビッシュは、16勝の好成績を残している。(つづく)