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小枝守さん逝去。1992年夏、甲子園準優勝を思い出す

楊順行スポーツライター
1992年夏の甲子園で準優勝した拓大紅陵(写真は立川隆史)(写真:岡沢克郎/アフロ)

「ごろた石が散らばり、草がぼうぼうでねぇ……もともとは、小学校の建設予定地。グラウンドとは名ばかりでした」

 1992年というから、あの『松井秀喜5敬遠』の夏だ。西日本短大付(福岡)との決勝前夜、拓大紅陵・小枝守監督は、なかなか寝つけなかったという。81年、開設間もない同校に赴任した当時のことがよみがえったのだ。

「日大三(東京)時代の教え子たちが、涙を流すんです。名門の施設とは、ギャップがありすぎるというわけ。野球部のスタートは、彼らが贈ってくれたスコップとバケツ、トンボで、グラウンドを造るところからでしたね」

 51年、東京生まれ。日大三2年の68年センバツ、内野手としてベンチ入り。ただ、その年の冬に故障したこともあり、3年時の甲子園出場はかなわなかった。日大進学後は、1年間捕手としてプレーしたが、2年のときに母校・日大三の練習を手伝った縁で、卒業までの3年間コーチを務めた。卒業後に教師として赴任後も3年間コーチ。その間71、72年のセンバツでは優勝、準優勝を経験した。

 25歳だった76年秋に監督となると、79年には、17年ぶりに夏の甲子園出場を果たす。だが翌年の夏前に監督を辞し、81年の3月には学校も退職した。その年の8月、拓大紅陵に移る詳細については「いろいろな事情があって」と本人、口を濁していたが、若くして名門の監督に就任したこともあり、学校や古参OBとの行き違いなどがあったのではないだろうか。

小枝じゃダメ、といわれたことも

 かつて制作していた雑誌の企画で、日大三時代の教え子であり、当時関東一(東京)を率いていた小倉全由・現日大三監督と対談してもらったことがある。両校がそろって出場する、86年のセンバツ前のこと。小枝さんの、布袋様のような笑顔と口調が印象的だった。当時、こんなふうに語っていた。

「日大三時代は、『小枝じゃダメだ』などといわれたこともありました。辞めるときには、いろいろな学校から誘いがあったんですが、もう一度監督をやるにあたっては僕にも意地がありましてね。まず、東京以外であること。さらに日大の付属校以外、OBの紹介以外、そして新しい学校であること」

 そして選んだのが、千葉の拓大紅陵。それにしても『意地』という言葉には、日大系列に対して、やはり含むところがあったのだろう。そこから足かけ12年。春夏通じて6回目の甲子園だった拓大紅陵は智弁和歌山、佐世保実(長崎)、池田(徳島)、尽誠学園(香川)を撃破して、初めての決勝に進出する。劇的だったのは当時蔦文也監督は退いていた池田戦の9回、立川隆史(のちロッテなど)の2ランでの逆転勝ちだ。そして特徴は、当時としてはめずらしい投手複数制。なにしろ杉本忠、多田昌弘、紺野恵治、冨樫富夫と、4試合で異なる4人が勝ち投手となったのは史上初めてのことだったのだ。

 小枝さんは、こんなふうに語っていた。

「かつての高校野球は、たとえ間違っていても、監督には絶対服従というイメージがありました。名門とか強豪ほど、そう。だから練習でも試合でも、悲壮感があった。でもいまの子たちは、血と汗と涙が勝ちに結びつかないと納得いきません。だから紅陵では、旧態依然を蹴飛ばしましたね。たとえば、たくさんのお客さんの前で試合ができて幸せだな、というのか、こんなにたくさん見ているんだからミスするな、というか。選手の緊張をどちらがほぐすか、どちらが思い切ってプレーできるかは明らかでしょう。

 日大三時代に一度は甲子園に出たけれど、コーチの時代には、『お前の野球には理念がない』などといわれ、監督としても思うように勝てず、自問自答していました。それで監督を退いた80年の夏、野球を一度外から見てみようと、いろいろな学校を回ったんです。たどり着いたのは、『簡単そうに見えることをむずかしく感じ、その奥の深さを考えてみる。それがわかったら今度は、むずかしく感じなくなるまでそれを反復する』ということでした。野球に限らず物事は、つきつめればそういうことじゃないでしょうか」

簡単なことほどむずかしく

 たとえばお茶ひとつ入れるにしても、ただお茶っ葉にお湯を注ぐだけではダメだ。お湯をおいしく飲める温度にするとか、茶碗を温めておくとか、簡単ではあるけれどいろいろな条件を整えて初めて、おいしいお茶になる。達人や名人といわれる人は、なにも考えなくても、呼吸をするように自然にそれができている。これこそ反復のたまもので、それは野球にも当てはまる。

 工夫もした。空き缶に鉛を詰め、あるいはゴムを張ってハードルをつくり、トレーニングに利用する。そうやって土台を築き、徐々に日大三仕込みの緻密な野球を注入していく。すると、「ごろた石だらけで草ぼうぼうのグラウンド」からスタートした新設校にも、手応えが出てきた。83年の秋に関東大会4強入りを果たすと、84年のセンバツに初出場。「投手成績が出場校中最低で、抽選会後、だれも取材に来てくれなかった」(小枝)ほど注目度は低かったが、小川博文(のちオリックスなど)の活躍などでベスト8に進出した。準々決勝で敗れたのが、KKのいたPL学園(大阪)だ。その年は夏も初出場し、さらに飯田哲也(のちヤクルトなど)、佐藤幸彦(のちロッテ)らのいた86年も春夏連続出場するなど、拓大紅陵は千葉高校球界のリーダーとなっていく。そして冒頭、92年の夏だ。

甲子園10勝を積み重ね……

 この年の小枝さんは、監督としての考え方に変化があったという。甲子園では、手応えのあったチームがベスト16止まり。そこで、見方を変えてみたのだ。

「それまでの私は、自分の頭の中で考えたことを、即実行していた。野球は確率5割のスポーツで、しかも選手たちにはミスも出ることを、試合になると忘れていたんです。ゆとりというか、遊びがなかったんですね。だからあの夏は、とくに選手の性格を重視して、それを作戦に採り入れました。たとえば投手陣なら、気持ちが乗るまで時間がかかり、立ち上がりの悪い冨樫は、試合中に投球練習を繰り返して抑えに。気持ちの盛り上がりの早い杉本は先発……というように、です」

 そういう発想が準優勝につながり、4人の勝ち投手という希有な記録を生んだわけだ。そして、2014年の千葉大会を最後に勇退するまでの33年間、甲子園に9回出場して10勝を記録した。教え子は1000人を越える。

 92年夏の決勝は、0対1で敗れはした。だがピンチになっても、一度も伝令を出さなかった。そのことを質問すると小枝監督、

「選手たちを信頼していましたから」

 布袋様のような柔和な目が印象的だった。

 合掌。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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