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社会人野球・日本選手権。大和高田クラブの勝利は『江夏の21球』が導いた

楊順行スポーツライター
1977年、若き日の佐々木恭介(写真:岡沢克郎/アフロ)

 JR四国の最後の打者・森山海暉をレフトフライに打ち取ると、一塁側の大和高田クラブダグアウトから、歓喜の選手たちが転がり出た。11月5日、社会人野球の日本選手権1回戦、大和高田クラブ1対0JR四国。日本選手権でクラブチームが企業チームから白星を挙げるのは、2009年の同チーム以来、実に8大会ぶりのことだった(11年は東日本大震災の影響で開催せず)。

 社会人野球で、クラブチームが企業チームに勝つのは並大抵なことではない。練習環境も違えば、素材も違う。強豪企業チームなら平日は午後から練習、強化期間なら終日練習が一般的だが、複数の企業から選手が集まるクラブチームなら、各選手が所属企業で終日勤務し、全体練習は週に数日、というのが基本だ。ざっくりいうと、高校野球の強豪私学と県立普通校のような力関係だと思えばいいだろう。大和高田は、クラブチームの中でも比較的練習環境に恵まれ、今年のクラブ選手権では4回目の優勝を果たしたクラブチームの雄だが、それでも佐々木恭介監督にいわせれば、

「強豪企業が大関、横綱だとすれば、われわれもなんとか前頭5枚目くらいまではきているかな」

 というくらい、地力の差がある。

企業チームは横綱、クラブは前頭

 その、佐々木監督。社会人野球の新日鐵広畑から1972年、当時の近鉄に入団し、78年には首位打者を獲得した外野手だ。79年の広島との日本シリーズ、あの『江夏の21球』というドラマでは主要な登場人物の一人になっている(詳細にふれる余裕はないので、若い読者の方はちょっと検索してみてください)。96〜99年には近鉄の監督。2015年に大和高田クラブの副部長、翌16年から監督となり、今季のクラブ選手権で自身の初優勝を果たすと、近鉄が本拠地としていた京セラドームへの"里帰り"が実現したわけだ。

 その初戦で企業チームを破った佐々木監督、

「試合途中で、孝介に"ちゃんと指導しとんかい?"と野次られましたが、終わってみれば会心のゲームでした」

 と笑う。孝介とは、阪神の福留孝介だ。佐々木監督がプロ野球・中日のコーチ時代から親交があり、この日は京セラドームに応援に駆けつけている。だが大和高田は、6回までわずか1安打と相手投手を打ちあぐんだから、スタンドから手厳しい激励を受けたのだ。

「就任当初は、大変だったですよ」

 と佐々木監督が振り返る。

「クラブチームについては、企業よりは相当落ちるやろな、という印象を持っていました。基本的には大卒を採用するわけですが、当然、プロや社会人の強豪からは声がかからなかった選手たち。実際に現場をあずかると、教えることがたくさんありました」

 最初は、いてまえ打線の近鉄よろしく、強打強打を貫こうとしたが、なにしろクラブチーム同士ならともかく、倒そうとする企業は大関、横綱だ。

「相撲にたとえるなら、低く当たって前褌をつかみ、フトコロに入り込み、頭をつけるしかない。となると、ピッチャー中心の守りから入り、数少ないチャンスをモノにするしかないんです」

 そこで徹底したのが、相手チームを丸裸にすることだ。データや動画をじっくり分析し、打者の傾向によってときには大胆な守備位置を敷く。「ハタからは"よう、あんなとこ守らせるな"というくらい、大胆に動かしますよ。おかげで、完全なヒットコースが野手の正面だったりすることもある」(佐々木監督)。それが守りの準備なら、送りバントやヒットエンドラン、アウトひとつと交換してでも泥くさく走者を進めていくのが攻撃面の特徴だ。佐々木監督はいう。

「負けたら終わりの社会人野球では、たった1球のバント失敗で、チームの1年が水の泡になることもある。そんな痛い目に、何回も遭いました。状況によっては、クリーンアップもバントしないとどうもならん。だからふだんの打撃練習では、40球を打つとしたら、半分の20球はバント、バスター、ヒットエンドランといった小技です」

 そうそう、思い出した。2年続けて和歌山箕島球友会というライバルと対戦した、今年のクラブ選手権決勝。4対5と1点を追う6回に追いついたのは、1死一、三塁からのセーフティー・スクイズ。またも1点を追う8回には、1死一、三塁からヒットエンドランを仕掛け、ピッチャーゴロの間に三塁走者が同点のホームを踏んでいるのだ。しかもその三塁走者は、無死一塁からのバスター・エンドランの成功によって三塁に達したもの。ほかにもスリーバント成功あり、日本選手権のJR四国戦でも、果敢なエンドランあり……。

振らなければ、なにも起こらない

 そして「とにかく、1球にこだわる。振らなければ、なにも起こらない」というのが佐々木監督の姿勢だ。これ、実は『江夏の21球』にルーツがある。3勝3敗で迎えた79年、広島と近鉄の日本シリーズ第7戦。3対4と1点を追う近鉄に、9回裏無死満塁という絶好のチャンスが訪れた。三塁走者のホームインで同点、二塁走者が還れば近鉄のサヨナラ優勝という場面で、代打として打席に入ったのが佐々木監督だ。初球ボールのあとの2球目。ど真ん中近くのシュートを見逃してしまう。その後3球目は、三塁手・三村敏之がジャンプして届かないヒット性の当たりが、きわどくファウル。結局、カウントツー・ツーから三振し、近鉄はそのまま無得点で敗退……。

「あの甘い2球目、あれを振っとかないと。もちろん、空振りかもゲッツーかもわからんが、振っとかないとなにも起きないんです。そういう1球の大切さは、選手たちにずっといっていること」

 その佐々木監督、「あの2球目を、きれいに右中間にはじき返す夢を、40回も50回も見ているんですよ」という。個人的興味で聞いてみた。あの『江夏の21球』、次の3球目のファウルは、実は三村さんのグラブにほんのちょっとふれていて、その時点でフェアだったのでは、という話をよく耳にします。フェアならば間違いなくヒットで、つまり近鉄の日本一か、少なくとも同点にはなっていた……。

「私も、三村さんの生前に取材がてら、"もう時効だからいいでしょう"と聞いてみたことがあるんです。そうしたら"西本(幸雄・当時の近鉄監督)さんには、すまんことをした"とだけ……」

 大和高田クラブは日本選手権の次戦、佐々木監督の古巣である新日鐵住金広畑に1対4で惜敗。2度目のベスト8進出はならなかった。だが。「1球にこだわる」姿勢は大関、そして横綱からの金星につながるはずだ。いつか、きっと。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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