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中京大中京のV監督・大藤敏行氏がライバル・享栄の監督に!?

楊順行スポーツライター
2009年夏の決勝。スコアボードが激戦を証言している(写真:岡沢克郎/アフロ)

 へえ〜、と思った。中京大中京(愛知)を率いた2009年夏、日本文理(新潟)との球史に残る決勝を制した大藤敏行氏が、母校・中京の同県のライバル、享栄の監督になるというのだから。

 享栄といえば、商業高校だった時代、中京とともに"愛知4商"と並び称された強豪だ。かの400勝投手・金田正一もOBで(正確には中退)、甲子園の優勝こそないが、春夏通算17回の出場で18勝。その享栄の監督に、だ。10年限りで母校の監督を退いていた大藤氏が就くというのだから、ちょっとびっくりである。私立高校の監督が同県のライバルに移るのは、東北(宮城)から仙台育英に移った竹田利夫氏らの例があるが、レアケースであることは確かなのだ。

 09年夏の優勝をはじめ春夏9回の甲子園に出場し、19勝を記録している大藤氏が、母校の監督になったのは90年8月のことだ。当時は静清工(現静清・静岡)のコーチを務めていたが、高校、大学の恩師・杉浦藤文氏(1966年、当時・中京商の春夏連覇時の監督)の鶴の一声で呼び戻されたのだ。同氏は回想する。

「それは、大いに腰が引けましたよ。なにしろそのときで全国制覇10回の名門で、そうそうたるOBの方々がご健在でしょう。なかには、うるさ型もいらっしゃいます。自分の母校といっても、28歳の若造がそこを率いるとなると、プレッシャーは計り知れません」

 当時の中京は、やや低迷期にあった。東邦や享栄、そして愛工大名電などに押され、甲子園に出るのは2、3年おき。まして、監督に就任したのは学校の改革がスタートした時期である。入学のハードルが上がれば当然、野球の成績はついてこない。94年の夏などは、愛知県内の超進学校・岡崎に初戦負けという屈辱もあった。さらに96年、学校改革に歩調を合わせるように、伝統ある詰め襟のユニフォームをリニューアルすると、大藤家の電話が鳴りやまなくなったという。

「お前じゃ勝てん。その上、ユニフォームまで変えるとは。辞めさせたるぞ!」

 デザインの変更は、理事長の意向なのに……内心でそう思いながら、じっと耐えるしかなかった。

甲子園目前の挫折が転機に

 チャンスがめぐってきたのは、その夏である。

「ベスト4まで進み、準決勝の相手は愛産大三河です。春にはコールドで勝っている相手で、ベスト4の顔ぶれには東邦も、享栄も、愛工大名電もいない。しかもそこまで中京はすべてコールド勝ちと、打線も絶好調でした。マスコミや周囲に"やっと甲子園が見えてきましたね"といわれ、内心、その気になっていたことも確かです」

 だが、4対7の完敗。甲子園が遠い。

「大藤じゃ勝てんといわれながら、ナニクソという反骨で監督を続けてきましたが、このときばかりは心底、オレじゃ勝てんな、監督を辞めよう、と思いましたね。中京で甲子園に行けん監督はオレぐらいだな、と自嘲しながら、当時の事務長に辞意を伝えました。結局、年度の途中だからと慰留はされましたが……」

 これがひとつの転機だったのかもしれない。大藤氏はまず、野球以前に、高校生としてきちんと指導することから取り組んだ。挨拶から始まり、部室の整理整頓、利用駅近辺の清掃。部室が汚れていたり、グラウンドの隅にボールが1個転がっているだけでも、練習をさせなかった。

「むろん、掃除をしたからって野球が強くなるわけではありません。ただ高校生レベルでは、力があってもそれが発揮できないことがある。だけど人間性がしっかりすれば、少しでも力を発揮しやすくなるんじゃないか。それが野球という団体競技では、貴重な戦力になっていくと考えたんです」

 すると、力としては明らかに前チームより落ちる96年秋の新チームが愛知を制し、東海大会でもベスト4に入って、翌年のセンバツに出場することになる。不思議なものです、もう自分じゃ勝てないと見切りをつけそうになって、初めての甲子園が実現するんですから……というのは、大藤氏の回想だ。

もしあそこで優勝できなかったら……

 97年のセンバツでは、天理(奈良)に敗れたものの、春夏連覇した66年以来の決勝進出で準優勝を果たす。さらに09年夏には、エース・堂林翔太(現広島)らがいて、43年ぶりの全国制覇だ。もっともその夏の決勝は、6点リードの9回表、降板していた堂林を温情で再登板させたのをきっかけに、10対9まで追いつかれ、一打逆転もあり得たのだが……。

「あそこで優勝できなかったらと思うと、ゾッとしますよ。また電話が鳴りやまなかったでしょう(笑)。それにしても、野球はなにが起こるかわからないことは、よく知っていたはずなのに……チームが甲子園に出た高校1年の夏に、こんな経験があったんです。私はアルプスの応援部隊でしたが、準決勝ではPL学園(大阪)を相手に9回まで4点リードと、勝ちはほぼ確定的です。1年生の私は、一足先に宿舎に戻って洗濯をしておけという指示で、洗濯板を使ってこすり洗いをしていました。すると宿舎の人が"追いつかれそう""延長に入った"。信じられませんよね、9回裏に4点を追いつかれ、12回でサヨナラ負けなんて。いま思えばあれが、逆転のPLという伝説の始まりでした」

 その大藤氏が、享栄の監督になる。夏は95年、春は00年を最後に、大舞台から遠ざかっているかつてのライバルを、どう立て直していくのか。道は決して平坦ではないだろうが、そう、野球はなにが起こるかわからないのだ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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