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いざ甲子園へ! その4 鈴木翔太を生んだ聖隷クリストファー

楊順行スポーツライター
鈴木翔太は松井裕樹、上林誠知、森友哉らと同世代

聖隷クリストファー? なじみのない校名かもしれないが、昨秋は静岡県大会を制覇し、東海大会に初出場。ここは初戦で敗れてセンバツ出場はならなかったが、2012年夏には準決勝、翌夏も準々決勝まで進んだ近年の実力校だ。そのときのエースが、現在中日で売り出し中の鈴木翔太である。

浜松シニアから入学したときは体重58キロと、いかにも線が細かったが、なにしろ投手の生命線である低めの制球がいい。1年夏の静岡大会からベンチ入りすると、2試合で先発を任された。体重増と比例して球速も増した2年夏には、当時圧倒的な強さを誇っていた静岡を2安打1失点、8三振で完投。続く浜松工も3安打で完封し、聖隷を初めてのベスト4に導いた。当時の鈴木洋佑監督によると、

「当時は、まず静高を倒さないと甲子園は見えず、ずっと目標にやってきた。そこで翔太が会心のピッチングで、体力と気力をピークに持っていくのがすごいところです」

準決勝では代表となる常葉橘に敗れたものの、143キロの直球とスライダー、カーブ、フォーク、チェンジアップ……と多彩な変化球をおりまぜ、延長13回までは無失点。非凡な才能が一躍クローズアップされた。3年の春先には右ヒジを痛めたが、夏にはなんとか復活。4回戦では焼津水産を延長10回5安打1失点で完投勝ちと、存在をアピールした。結局甲子園には手が届かなかったものの、2013年のドラフト1位で中日に入団することになる。

昨秋、創部32年目の快挙

そして……昨秋、母校の聖隷は準決勝で静岡を、決勝でも藤枝明誠を下し、春・夏・秋を通じて初めての県制覇を成し遂げた。創部32年目の快挙。原動力は準決勝、決勝と連続完封した、左腕エースの河合竜誠(たつまさ)だ。168センチと小柄で、当時は最速も120キロ台。だが低めに丁寧にスライダーを集め、右打者には外に逃げるチェンジアップ、さらにときには内角に厳しく直球……という絶妙の投球術が持ち味だ。

左右も、またタイプも違うだけに、浜松シニアの後輩とはいえ河合を「鈴木翔太2世」とはいいにくいが、それならそれで戦い方がある。聖隷では、ベンチの指示で野手がこまめに守備位置を変えるのがチーム戦術。河合の制球と配球のよさがあるからこそで、これが機能したのがたとえば秋の静岡戦だ。計8安打ながら決定打は許さず、チーム一丸での完封劇を河合は振り返る。

「内野も外野もよく守ってくれて助かります。秋に優勝したので、もう一度優勝して、みんなと甲子園に行きたい」

加えてこの春からは、上村敏正氏が副校長に就任。上村氏は浜松商3年の夏に主将として甲子園に出場し、1984年から母校の監督を13年間務めて甲子園に7回導いた。09年には、掛川西の監督としてセンバツに出場した名指導者だ。「1年くらいは校務の関係で現場指導はむずかしいでしょう」と語ったそうだが、どんなかたちでも屈指の野球理論が注入されるのは大きなメリットだ。

春は奇しくも、上村氏の母校・浜松商に初戦負けしたが、底力はあるだけに巻き返しは必至。9日、浜名との初戦を突破すれば、次戦はセンバツに出場した静岡との対戦が待つ。鈴木翔太は中日入団時、「3〜4年後に一軍で投げさせてもらえるように」と抱負を語り、いま見事にそれを実現した。その先輩がかなえられなかった目標・甲子園出場を果たせるか。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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