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菅野の東海大時代は、3連続完封どころじゃなかったぞ(その1)

楊順行スポーツライター
2010年、世界大学野球選手権での菅野智之(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

“神様、仏様、稲尾様”といわれた、鉄腕・稲尾和久。1956年にプロ野球・西鉄ライオンズ入りすると、「スピードでは太刀打ちできない」と、1年目の春のキャンプから中西太、豊田泰光といった猛者たち相手の打撃練習で、制球力をみがきにみがいた。新入りのこと、1時間も投げれば球数は500にも達する。打者に気持ちよく打たせるのが打撃投手の役割だが、あまりにストライクばかり続けると打ち疲れるから、4球に1球ほどボールを投げるのが適度なリズムだった。

稲尾は、そのボール球を自分の練習とした。内角高め、外角低め、外角高め、内角低め……四隅ぎりぎりに投げ分ける。500球の4分の1として、一日120球になる勘定だ。こうして、針の穴を通す制球を磨いた稲尾は、初年度から西鉄の3年連続日本一に貢献する大投手になっていく。東海大相模高2年になろうとする時期の、菅野智之。さながら、この伝説の投手のように、打撃投手の場を鍛錬の機会としていた。

「(新町)中学では軟式でしたから、高校に入って硬式でプレーするのが楽しかったですね。軟式ならば軽いので、多少投げ方が悪くてもいいボールがいくんですが、硬式は重くて指先にかかる抵抗も違うし、きちんとした投げ方じゃないといけない。ただ、指にうまくかかればスピードも出るし、変化球もよく曲がるんですよ。

実は、入学前から肩が痛くて……だましだましやっていたんですけど、6月くらいにはいよいよダメ。体もできていなかったし、そこから半年くらいはまったく投げませんでした。ノースローで、とにかく走って、また走って、という日々です。そうしている間に肩の痛みはなくなり、少しずつ投げ込みを始め、(2006年春の)センバツ出場を控えたチームのバッピーをするわけです。

するとね……ずっと走っていたことで下半身がしっかりし、体の力がついたのか、それまでにない感覚で投げられたんです。以前はボールが抜けていたのに、体の前で押さえ込むことを体で覚えました。140キロを超えるようになったのは、このころですね。ただそのころは、まっすぐよりもどちらかというとスライダーが切れて、上級生によく“打てねえよ”といわれましたよ。バッピーだから、打たせなくてはならないんですが、こっちもアピールしなくちゃいけないから必死でした(笑)」

打撃投手からの大出世

だれよりも速いボールを投げたい……ボールを握った小学1年生のころからずっと、菅野が胸に描いてきた野望だ。1998年には、同じ神奈川の横浜高・松坂大輔(現ソフトバンク)が、甲子園で春夏連覇するのをテレビで見た。衝撃だった。ピッチャーをやる以上は、ああいう存在になりたい……。神奈川・相模原市立鶴の台小学校には5つのチームがあったが、菅野の所属した東林ファルコンズはじめ、各チームとも練習は土日だけ。

「だけど野球が大好きだから、それじゃあ物足りなかったですね。放課後は校庭が開放されるので、毎日家に帰ると、バットとグラブを持ってまた学校に行き、やっぱり近所から集まってくるヤツらと野球をやっていました。壁にマトを書いたり、空き缶を目標にしてピッチング練習もしましたよ」

昭和の時代、グラブを引っかけたバットを肩にかつぎ、真っ黒に日焼けした野球小僧が町のあちこちにいた。その絵がよく似合いそうな野球小僧・菅野は、新町中に進むとエースとして県大会に優勝し、関東大会でもベスト8に進出するまでになる。

そして高校は、かつて祖父が監督を務め、伯父が大活躍した東海大相模高へ。その高校で、走ることとトレーニングに明け暮れた1年を過ごすと、成長は急カーブだった。打撃投手でのアピールが効いたのか、2年の春からベンチに入り。3年春の県大会では、敗れたとはいえ横浜高を相手に完投し、16奪三振。成田高と練習試合をすれば、唐川侑己(現ロッテ)と投げ合って19奪三振。球速も、Max148キロにまで達していた。

ただ……ことに激戦区・神奈川にあっては、甲子園はことのほか遠い。2年の秋は、大会途中でねんざし、桐光学園高に県の準決勝で敗退。最後の3年夏も、春に敗れた横浜高を準決勝で倒しながら、決勝でまたも桐光に敗れた。

「高校時代は、なにかあるたびに伯父の話になるのがイヤでした。実力はまだまだなのに、話題ばかり先行する感じですよね。実際に3年の夏、佐藤(由規・当時仙台育英高、現ヤクルト)が甲子園で155キロをマークしたでしょう。“現時点の自分の実力では絶対、無理だな”と思っていましたから」

というわけで、ドラフト上位候補とウワサされながら、高校ではプロ志望届は出さず、東海大に進学することになる。やはり伯父と同じ進路だが、話題性だけではなく、とてつもない才能として菅野の名前が認識されるまでに、それほど時間はかかっていない。1年の春から、抑えとしてリーグ戦に登板すると、秋からは先発となり5勝無敗。2年春も5勝をマークして、最優秀投手に輝いた。さらに夏には、日米大学野球に出場し、東京ドームで153キロを計時。リーグ戦ごとに、いや、試合ごとに菅野は、一回り大きくなっていく。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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