新垣渚が、右スネの骨折で棒に振った1997年の夏。沖縄水産は宮里康や、もう一人の2年生・大城直也の踏ん張りで県大会の決勝まで進んだものの、浦添商の前に力尽きた。新垣の悔い。

「夏はヤスシ一人できつそうだった。僕がいれば、結果は違っていたかもしれない。自己管理がなっていなかったんだ……」

そのもやもやを解消するには、ケガして以来ずっと続けてきた地道なトレーニングしかない。足に負担のかからない自転車こぎ。スクワットで背負う重量も、日に日に増していく。ようやく、夏休みの新人大会でマウンドに戻ったとき。下半身が安定したのが、自分でもわかった。

「ナギサは、ケガが治ってますますすごくなりました。もともとタマは速いし、角度がある。紅白戦で打席に立って対戦すると、怖いくらいですよ」(宮里)

新垣が築く三振の山がうずたかくなるのは、これ以後のことだ。

一方で、もうケガはゴメンだと、名前の漢字”渚“の”日“の上に”`“をつけた。打ち寄せる波を受け入れる広い心を持ってほしい、と両親が願いをこめた名前だが、字画を1画増やすとケガが少なくなると聞き、藁にでもすがる心境だった。不思議とそれ以後、ケガがなくなる。栽弘義監督はいっていたものだ。

「人間の骨というのは、いったん折れると逆にしっかりすることがあるんだそうです。ナギサの場合も、そうかもしれない。ひょろひょろだった下半身が、安定してきました。校内の10キロマラソンだって、昔は走りきれなかったのが、いまでは完走しますから。これで走り込みを本格的にやったら、すごいピッチャーになりますよ」

98年夏、甲子園史上最速(当時)をマーク

迎えた春。第70回選抜高校野球大会の優勝候補は、本命が松坂大輔の横浜、九州王者の沖縄水産は対抗といったところだ。新垣の全国へのお披露目は、2日目第1試合。相手は、浦和学院だった。2対1と沖縄水産が1点リードし、5回無死二、三塁のピンチに、先発・宮里をリリーフする。「ランナーを背負っても、動揺しないように」という心構えではいたが、宮里の思いのほか早い降板に戸惑いがあったのか。この回押し出しで同点にされると、続く6回には2失策もからんで逆転を許す。2対4。あっけない初戦敗退だった。

だが4イニングを投げた新垣は、被安打1、自責点はゼロ、そして奪った三振7とさすがの数字である。「抑えてやろうという気持ちが強すぎた。でも、ストレートの伸びはよかったと思います」(新垣)。なかでも8回裏、注目のスラッガー・小板佑樹を見逃し三振に打ち取ったボールは、自己最速の147キロを計時した。「身長があるので、マウンドがすごく近く感じた」。小板はそう、舌を巻いている。

センバツ後は「ステップを広くして、下半身を使いたい」とフォームを改造。九州大会の準々決勝では、佐賀学園に7回1安打10三振、しかも無四球という完璧な投球を見せる。球速も、151キロをたたき出した。夏には、と栽監督がいっていた数字を、それよりも早く実現したわけだ。センバツ優勝の横浜・松坂大輔が甲子園でマークした150キロを抜く、この時点での史上最速である。

「甲子園で負けて、自分が変わらなければと思った。松坂君にも、スピードだけは負けたくなかったですから」

とは新垣である。そして、最後の夏。相手は初出場の埼玉栄と、センバツの浦和学院と同じ埼玉勢だ。3回無死二塁から、宮里の救援でマウンドに立ったのもセンバツと同じだった。自滅したセンバツの経験から、スピードより制球重視。冷静に投げる新垣は、点を与えない。チームも5回に4対3と逆転し、白星が見えてきた。ところが……。

7回二死二塁、大島裕行(元西武)の打席だ。2年生ながら通算48ホーマー、しかも春の関東大会で松坂からツーベースを打っている四番打者だ。その初球、146キロのストレートを力強くはじき返すと、打球は右中間スタンドに飛び込んだ。逆転2ラン。新垣が公式戦で浴びた、初めてのホームランだった。結局、4対5。新垣は、春夏合わせてわずか180球で甲子園を去ることになる。

「外角狙いが真ん中に入ってしまい、投げた瞬間、やられると思いました。でも、勝負した結果。納得いくピッチングができました」

それでもこの日の最速は、やはりこの大会で松坂がマークした記録と並ぶ151キロ。01年に寺原隼人(日南学園・現ソフトバンク)が更新するまで、高校野球史上最速といわれる数字だった。つまり新垣は、2月に取材したときの宣言通り「だれにも負けない速いボール」を投げたのである。

あれから、19年がたとうとしている。いまや高校生でも、150キロ超えはめずらしくない時代。この夏、どんな速球王が出てくるのだろうか。