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栽弘義監督がモデルの『沖縄を変えた男』公開。そこで思い出した松坂世代・新垣渚のこと(その1)

楊順行スポーツライター
現役時代、あまりのスライダーのキレに"暴投王"とも呼ばれた(写真:ロイター/アフロ)

野球関係者の飲み会で、沖縄水産・栽弘義元監督をモデルにした映画が公開されているという話を聞いた。題して『沖縄を変えた男』。おりしもスポーツ誌『Number』が、松坂世代を特集している。僕も実際、多くの松坂世代に話を聞いたが、沖縄水産の松坂世代ということで思い出したのが新垣渚である。

高校時代の新垣に話を聞いたのは、1998年の2月。もう19年前のことだ。

「とにかく、だれにも負けない速いボールを投げたいんですよ」

その年のセンバツに出場する沖縄水産の、事前取材。新垣は、気負いなくそういった。

前年の秋。沖縄を制した沖縄水産は、九州大会でも10年ぶりの優勝を成し遂げた。宮里康、新垣という2人のエースがその原動力だった。ことに新垣のドクターKぶりは出色で、新チーム計100イニングを投げ、奪った三振が125。同じシーズン、194回を投げて222三振の松坂大輔(当時横浜・現ソフトバンク)もバケモノだったが、新垣の奪三振率はその松坂をしのいでいた。

なかでも、九州大会の数字には驚いた。登板した2試合、まず玉名戦では毎回の18三振を奪い、2安打で楽々完封。準決勝では東筑を相手に5回コールドながらノーヒット・ノーランを達成する。フォーク、スライダーで幻惑し、MAX145キロのストレートで打ち取る投球術は、高校生ではちょっと手が出ないといわれた。

90、91年の夏、全国で連続準優勝を飾った沖縄の名伯楽・栽弘義監督はこういっていたものだ。

「夏までには150キロを超すでしょう。同じ時点で比較すれば、アキラ(上原晃・のち中日など)が上ですけど、将来的にはナギサ(新垣)のほうが大器じゃないですか」

奪三振率では松坂より上だった!

上原といえば85〜87年の沖縄水産時代、4回甲子園に出場している右腕。2年秋の新チームでは、135回を投げて154個の三振を奪い、のちには1試合21三振を奪ったこともある南海の火の玉投手だ。ストレートの7割以上が145キロ、MAXは147キロに達していたといわれる。その上原をしのぐ大器、とは……。新垣は、18三振を奪った玉名戦を振り返った。

「あの試合では、8回を終わって17三振でした。宜保(政則)コーチ(上原が1年のときの3年で、バッテリーを組んでいた)からは”20個を狙え。アキラは21個取ったぞ“といわれて、9回は三振を狙っていったんですけど……でも、ストレートを相手が見送ったり、空振りするのって、気持ちいいものですよ」。

新垣が投げるブルペンで、捕手の後ろに立ってみた。軽い肩慣らしの段階からボールがうなる。ぐぐっと伸びる。ピッチを上げていくと、まるで白いレールを敷いたように閃光が走る。ただし、下半身がまだ細く粘りがないため、ステップ幅が狭く、188センチの上背を生かし切れていない。上半身に頼った、いわば手投げのようなフォームだ。それを承知で、栽監督がつぶやいた。下半身がしっかりすれば、夏までに150キロも夢じゃないですよ……。

幼稚園時代は『キャプテン翼』の影響でサッカーをしていたが、兄の影響もあり、小学校2年で野球を始めた。那覇市・真和志中では、投手として県大会に出場。高校進学時、いくつか誘いはあったが「レベルの高いところで生き残ってこそ価値がある」と沖縄水産を選んだ。だが「入ってみて、正直、やばいなと思いました。ピッチャー候補がたくさんいて、競争に勝ち残れるのかと思った」という。

新垣は中学2年のとき、右スネを骨折している。幼少期から、2度目のことだった。その補強のため、長さ20センチほどの金属を入れていたのだが、「野球のような激しい運動をするには、それを取らないと……」という医師の勧めで、高校入学前に除去した。だが、ずっと補強していたため、いきなり無理はできない。下半身をいじめるのもおそるおそるで、ライバルたちが10やっているのを横目に、5のトレーニングしかできない。下半身を生かしきれないフォームには、そういう事情もあった。

そして2年になった春の県大会前。ライバルの宮里が着々とエースの座に近づいているのが、新垣の焦りを呼んだ。

「春の県大会の2日前、練習試合でちょっと足をひねったんです。それで、古傷がうずきだした。でも下級生の僕らは、せっかくベンチに入れてもらっているんだから、多少痛くても、監督さんにアピールしたいでしょう。そこで無理したのが……結果的にいけませんでした」

古傷の右スネを、再度骨折してしまう。宮里は、ライバルの故障を、こう振り返った。「あのチームは、ピッチャーが僕らの代しかいなかったんですよ。だからナギサのケガは、動揺しましたね。ナギサがいるからこそ、僕も安心して思い切り投げられたところがあるのに……」。

結局新垣は、大事な97年夏のシーズンを棒に振ることになる。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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