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渡辺元智監督勇退。そこで「厳選・横浜名勝負」 その7

楊順行スポーツライター

1998年8月22日 第80回全国高校野球選手権大会 決勝

京都成章 000 000 000=0

横  浜 000 110 10X=3

4回、松本勉のホームランで先制した横浜は、5回にも佐藤勉の適時打で加点。立ち上がり本来のデキを欠いた松坂大輔だがこれでリズムに乗り、スライダーを巧みに振らせて10三振。許した走者は3四球と振り逃げの4人だけという好投で、決勝では39年の嶋清一(海草中)以来の無安打無得点という大記録を達成した。

渡辺元智監督はいう。

「この松坂のノーヒット・ノーランも、松本、佐藤という二遊間がいなければ達成できていなかったでしょう。内野安打になってもおかしくない当たりを、どれだけ2人が助けたか。打球に対する反応が、それほどすぐれていました。神奈川の球場は人工芝が多いですから、その対策で軟式のボールを使ったノックをよくするんですが、そのおかげで甲子園の高いバウンドのゴロやショートバウンドにも、タイミングが合うんですね。

それとふだんから、相手打者のバットの角度、ピッチャーの投げるコース、球種から、打球の方向を予測しなさい、とうるさくいっていました。そこらあたりが、あのチームはすごかったと思います。

また松本はこの試合、先制ホームランを打っているんですが、本来ホームランを打つ子じゃないんです。ところが、捕手のサインが内角直球だったんでしょう、ショートが引っ張りに備えて、三塁側にちょっと動いたんですよ。松本はそれが視界に入ったのか、内角ストレートと読み切って、一、二、三! で思い切り振った。それがなんと、公式戦初ホームランですよ。加藤(重之)にしろ松本にしろ、やはり、知的な力が高いときが強いです。

あのチームは完璧でした。あらゆるチームプレー、チームワーク、個人の能力はもちろんモチベーションの高さも、厳しさも。そうでなければ、夏の甲子園で3試合続けて都合のいいドラマなんて起きませんよ」

スタートは、病院を抜け出しての指揮だった

思えば97年の夏、神奈川県大会の準決勝で敗れたのは、松坂のサヨナラ暴投によるものだった。スタンドからは「渡辺もう辞めろ、オマエの時代は終わった」という声が聞こえてきた。そうした心労からか、心臓に負担のかかった渡辺は心房細動が再発し、そのまま入院した。そろそろ潮時かな……弱気になりもした。

「ところが松坂を中心に、2年生が主体だったチームが残るし、当時の3年生も"来年がんばれ!"と松坂たちを励ましてくれたんですね。それでもう一度やってみようと思い直して、厳しい合宿をして、新チームの県大会初戦は病院から抜け出しての采配でした。

そこからは、98年には地元で国体があるから、まずはそれに出よう、そしてそれを最後に退こうという気だったんです。体調にも自信がなくなっていましたし。すると神宮大会を皮切りに春夏連覇、そして国体も優勝して公式戦44連勝でしょう。史上初めての四冠を達成して、自分ではまたとない有終の美にするつもりだったんですが……」

連覇メンバーの松本ら、新チームの選手たちは、渡辺の辞意を薄々察知した。すると、直訴するわけじゃなくても「僕らの年代もお願いします」という空気になる。渡辺が身を引きたいと思っても、なかなかそうはさせてくれないわけだ。

「その、新チームがです。戦力としては、松坂たちに比べてがくっと落ちるんですが、よくセンバツに出てくれました。その99年センバツでは、1回戦でまたもPLに当たり、今度は敗れるんですが、力のなかったあの世代で甲子園に行けたことが、ここまで続けてくるのにひじょうに大きかったですね」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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