「野球で大成したかったら、誰よりも練習するしかない。100回バットを振ったヤツに勝ちたいなら、101回振るしかないんだ」

 それが持論の落合博満は、身になる練習に取り組むためには強い体が必要であり、「強い体は十分な食事と睡眠で作られる」と断言する。それは、自身の野球人生が証明しているからだろう。

 1979年にロッテへ入団してから2年間、落合は一軍とファームを行き来する選手であり、当時は大の偏食家。ロッカールームでカップ麺をすすりながら野球に打ち込む日々の中、一番のご馳走は肉と酒で、白米に粉末のジュースの素をかけるのが子供の頃から好きだった。

「プロ野球界で名を残そうなんて、これっぽっちも頭にない。プロに入って考えたのは『これで、クビになっても元プロ野球選手になれる』ということ。契約金の残りで飲み屋でも開けば、野球好きのお客さんが来てくれると思っていた。飲食店の経営者に怒られてしまうような甘い考えだ」

 そうした落合の考えが変わった……いや、無理やり変えさせたのが結婚前の信子さんである。実は、知り合った頃の落合の印象は、それほどよくなかったという。

「二人で映画を観に行った帰り、落合は私の実家に手土産のウイスキーを買って立ち寄りました。そのウイスキーを開け、私の母がおつまみを作ると、落合は金平牛蒡の小鉢を遠ざけながら、『これは美味しいんでしょうが、僕は嫌いなんで、今度から出さないでくださいね』と言ったのです。好き嫌いが極端に多いし、頬には吹き出物が目立つ。虫歯も多いと聞き、これは食事を管理しなければいけないと思わされました」

 ほどなく、落合は試合や練習後に信子さんの実家に足を運ぶことが増え、信子さんが母親とこしらえる手料理を味わいながら、肝心な野球の成績も上向いていく。

「年俸は360万円でしたけど、ある時から食費だけは落合に支払ってもらいました。次第に、一生懸命にプレーしていただいた給与と日常生活がリンクし、私が作った料理を残すのがもったいないと感じてくれるようになった。好き嫌いもせず、出されたものを残さず平らげるようになったのです」

夏バテ知らずの三冠王を支えた鍋料理

 3年目の1981年に二塁手として一軍に定着した落合は、いきなり首位打者争いに加わり、打率.326で初タイトルまで手にする。さらに、翌1982年に三冠王を手にしたのは周知の通りだ。周囲も驚く大ブレイクの裏には、信子さんによる徹底した食生活の改善があった。その後、信子さんと結婚した落合の数字は右肩上がりで、3度の三冠王という大偉業も成し遂げる。

 落合が安定した成績を残せたのは、多くの選手が数字を落とす夏場にもコンスタントなパフォーマンスを続けられたから。「20年間のプロ生活で、夏バテしたことがなかった」という強靭な体力は、鍋料理によって支えられていたという。信子夫人がこう振り返る。

「落合の大阪遠征についていったことがあり、その時にチームメイトの方々と入った台湾料理店の石鍋にピンときました」

 その石鍋を信子夫人が忠実に再現すると、どうしても食欲が落ちてしまう夏場でも落合の食べる量は減らなくなった。そして、スープや野菜で水分が摂れ、不足しがちな塩分も程度に補える鍋料理は、季節を問わず落合家の食卓に出されるようになる。好き嫌いの多かった落合にとって、何でも具材にすることができ、煮込まれた具材はスムーズに胃袋へ入っていく。鍋が終われば麺や飯を入れ、締めの炭水化物で満足感も十分だった。

 そうやって鍋に目を向けると、寄せ鍋、水炊き、すき焼きと種類も豊富で、次第に色々な鍋料理に舌鼓を打つようになった。落合家の鍋料理は後輩選手に振る舞われることも多く、特に石鍋のレシピはかなり拡散された。ただ、時代の移り変わりとともに、選手の好む食事にも変化があると落合は言う。

「最近、キャンプや遠征の際の食事は、ホテルの宴会場でバイキング形式が多くなった。自分で好きな物を好きなだけ食べられる分、食事を上手く摂れる若手が少なくなったという印象がある。また、今回のコロナ禍で、スポーツ選手の食生活にも何らかの変化が出てくるだろう。いずれにしても、腹いっぱいに食べて、食べた分は練習して体を作り、上手くなるという過程だけは忘れてはいけない」

 このような落合の食の哲学をまとめた新刊『戦士の食卓』が、4月14日に岩波書店から刊行される。大の偏食家が三冠王に成長していくプロセスが、信子夫人の証言も含めてつぶさに明かされていく。興味のある方はぜひ。