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「江夏の21球」の向こう側――日本シリーズ開幕直前に名勝負を振り返る【その1】

横尾弘一野球ジャーナリスト
大毎、阪急、近鉄で8回もリーグ優勝しながら、日本シリーズにはすべて敗れた西本幸雄(写真:岡沢克郎/アフロ)

 小雨のそぼ降る大阪球場。石渡 茂のバットが空を切り、グラウンドに五色の紙テープが投げ入れられる。マウンドでは、痩身の水沼四郎が巨漢の江夏 豊を抱きかかえ、その周りでブルーのユニフォームが輪になって揺れている。

 西本幸雄は、あの試合のクライマックスが、時を経ても夢に出てくることがあると言った。

「やっぱり悔しかった。忘れることはできないよ。あの試合は……」

 1979年11月4日、近鉄バファローズ対広島東洋カープによる日本シリーズ第7戦。勝ったほうが初の日本一を手にする天王山は、4対3という僅かな差で広島に軍配が上がった。そして、9回裏に江夏が投じた21の投球を軸に、奇跡の名勝負として語り継がれている。

 確かに、この試合で江夏は多くのものを手にした。1950年のセ・リーグ加盟から長くお荷物球団として低迷してきた広島に、創設30年目で初の日本一をもたらしたこと。阪神時代に球界を代表するエースの称号を手にしながら、守護神に生まれ変わっても頂点を極めたことなど。この戦いは、江夏のためにあったと言っても過言ではないだろう。

 しかし、その一方では、自らに冠せられた有り難くない肩書きを取り去ろうとする男がいた。指揮官として率いたチームを8度もリーグ優勝に導きながら、日本シリーズではことごとく敗れたために、『悲運の名将』と呼ばれた西本が、7度目の挑戦にして悲願の日本一に最も近づいたのも、この場面だったのである。

 あの9回裏の息詰まる攻防の中で、西本は何を思い、何を見たのか。そして、西本にとっての日本シリーズとは。

「あの試合のことは、もう色々と書かれてきたよね。私が話すことなんてないんじゃない?」

 西本はそう言って笑いながら、記憶を巻き戻し始める。9回裏、広島のマウンドには7回途中からリリーフに出てきた江夏がいる。先頭打者の羽田耕一は、江夏の初球を見事にセンター前へ弾き返した。この場面、江夏は「最後の攻撃は慎重にいきたい。だから、先頭打者が初球を打つなんてセオリーはない。私も不用意だったが、まさか羽田が打ってくるとは……」と振り返っている。西本は、羽田にどんな指示を与えたのか。

「4対3で9回裏なんていう試合は、そこへ行き着くまでに手を打ち尽くしているもの。じっくり攻めるケースではないし、ましてや先頭打者に細かい指示など必要ない。だから、羽田には何も言わなかった。彼はもともとサウスポーには自信を持っていたし、この年のオープン戦か何かで江夏からも打っていたはず。あのヒットは、彼の自信と技量が生んだものだったと思う。完璧な当たりだったからね」

 無死一塁。西本は、足のスペシャリスト・藤瀬史朗を代走に送る。二盗かヒットエンドランか、それとも送りバントか。チャンスを広げるためには、いくつかの作戦が考えられる。打者はクリス・アーノルド。ここは、どんな策を講じようとしたのか。

「外国人選手には、小技を要求しにくいというイメージがあるが、アーノルドは自分のパワーを誇示するタイプではなかった。送りバントという戦法もできたでしょう。でも、藤瀬を送り出す時には『自分が行けると思ったら走れ』と指示した。アーノルドには『ストライクを打て』とだけ言った。羽田の時と同じで、シーズン中からここ一番で盗塁を決めてきた藤瀬の足、確実性のあるアーノルドのバッティングを信じていた。まだまだ策などありゃせんよ(笑)」

 捕手の水沼は、近鉄の動きを探ろうと必死に一塁側ベンチを覗き込み、江夏もクイック・モーションを起こす。アーノルドへの初球は様子を見るために外角へ、2球目は手を出してくれればと内角高目へ、いずれもストレートが投じられる。カウント2ボール。西本はベンチを飛び出すと、アーノルドに向かて再び「打て」と声をかける。

 2つの牽制球のあと、江夏はまたもクイックでストレートを投げ込む。真ん中のストライク。アーノルドのバットはピクリとも動かない。江夏はまた牽制を挟み、今度は外角低目へストレート。ここで藤瀬が走った。「藤瀬は、アウトのタイミングと踏んでヘッドスライディングをしたようだが、私は完全にセーフだと思った」と西本。そして、水沼の送球が逸れて藤瀬は三塁まで進む。無死三塁という、願ってもない同点のチャンスが舞い込む。

 広島がタイムを取ってマウンドに集まる時間を利用し、西本は三たびアーノルドのもとへ足を運ぶ。通訳を伴わず、アーノルドの肩に手をまわして「ストライクを打て」と日本語で伝える。アーノルドは大きく頷いて気合いを入れ直したが、江夏が誘い球として投じた内角低目のボールを見送ると、球審はフォアボールをコールする。

 無死一、三塁。西本はアーノルドの代走に吹石徳一を送り、逆転勝利へのシナリオを思い描き始める。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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