本田宗一郎の夢かなえた「紙ヒコーキ少年」の30年/ホンダジェット国内販売へ

ホンダジェットの国内受注開始を発表する藤野道格氏(撮影・安井孝之)

 ホンダが小型ジェット機「HondaJet(ホンダジェット)」(最大7人乗り)の日本での受注を始めた。2019年前半の納入を目指す。欧米では2015年から販売しており、ようやく日本での販売に乗り出す。販売価格は525万ドル(約5億8000万円)。2017年に43機を出荷し、小型ジェット機市場では米セスナの同クラスの小型ジェットを抜き、世界トップとなっている。

 航空機製造はホンダ創業者、本田宗一郎の夢だった。その夢を日本の空でも来年、かなえることになる。

 宗一郎は少年時代、飛行機に憧れた。101年前の1917年5月28日のことだった。10歳の宗一郎は生家があった静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)の船明(ふなぎら)から20数キロ離れた浜松の練兵場(現在の和地山公園)まで大人用の自転車で向かった。米国人飛行士、アート・スミスの曲芸飛行を見るためだった。学校をずる休みし、父・儀平にも内緒だった。飛行機が浜松に来ると聞いて、いても立ってもいられなかったのだろう。

弘前の空に紙ヒコーキを飛ばした少年時代

 その宗一郎の夢をかなえたのがホンダエアクラフトカンパニーの藤野道格社長。1960年に生まれ、東京大学工学部航空学科を卒業し、1984年にホンダに入った。少年時代は青森県弘前市で過ごした。藤野さんは少年時代、自宅があった公務員宿舎の階上から紙ヒコーキを飛ばして、飛距離を競ったという。藤野さんもまた少年時代の夢を、ホンダジェットでかなえたといえる。

 だが藤野さんがホンダに入ったのは、クルマがつくりたかったからだ。航空学科を卒業してはいるが、日本の航空産業は航空機をゼロから作り上げるだけの力があったとはいいがたい。クルマなら世界のトップレベルの開発に従事できると考えた。

 せっかくクルマづくりを始めたのに、入社2年後の1986年、ホンダが始めた航空機プロジェクトに回された。集まったのは20歳代の若手ばかりだった。藤野さんは大学で航空工学を学んだといっても、航空機づくりの経験はない。ホンダ幹部らの考えは、まったく新しい航空機をつくるのならば、経験者が加わるよりも白紙の状態で研究できる若手中心のチームの方が良いというものだった。

 ホンダらしい考え方ではあるが、かなりチャレンジングなチーム編成だといえる。まったく新しい事業に取り組む際に、普通の会社なら先行企業の専門家をヘッドハンティングしたり、社内でも経験豊富な管理職を据えたりするものだ。航空機製造という膨大な先行投資と複雑な設計、認定プロセスがあるプロジェクトを、20歳代の若手だけのチームに任せたのは今更ながら驚いてしまう。

 開発着手から10年で2機の実験機(MH-01、MH-02)を完成させ、飛行試験を実施した。現在のホンダジェットのようにエンジンを主翼の上に置くデザインではない。1996年8月、MH-02の飛行試験を終了した。

 問題は航空機プロジェクトを継続するかどうかだった。10年経って航空機らしきものはつくれたが、新しい市場を創造するほどの抜きんでた機能を持ち合わせてはいなかった。この先、何年を費やせば、事業化が可能かもわからない。一方、日米欧の自動車産業の開発競争は激しくなるばかりだった。プロジェクトに参加していた多くの技術者も「クルマづくりに戻りたい」と口にした。一部の役員らもプロジェクトの存続に疑問を投げかけた。

 1997年に向かえたプロジェクトの危機

 藤野さんの受け止めは少し違っていた。10年間でゼロから実験機を作り上げた経験は貴重だった。航空機製造の全体を学んだと感じていた。何より米航空機製造会社からのヘッドハンティングの誘いもあった。自信が生まれていた。若手ばかりのチームだったが、業界内での評価はそれなりに高くなっていた。

 1997年、自宅で寝ようとしたときにエンジンを主翼の上に置くアイデアがふと浮かんだ。なんとかプロジェクトを存続させようと、競争力のある航空機の新しいコンセプトをひたすら考えていた時だった。

 小型ジェットは通常、胴体後部にエンジンを取り付ける。大型ジェットのようにエンジンを主翼につけられれば、胴体後部のエンジンを支持する構造がなくなり、胴体内部の空間が広がる。だが小型ジェットの場合は主翼の下には十分なスペースがなく、エンジンの取り付けは難しい。

 「それなら主翼の上につけたらどうか?」

 エンジンは主翼の下につけるものという「常識」からは思い浮かばないアイデアだった。上につけては空気抵抗が増すというのも専門家の「常識」だった。ところが藤野さんが、主翼のいろんな場所にエンジンを置いた時の空気抵抗を計算すると、主翼の上につけても空気抵抗が増しはしない場所があることを突き止めた。

 ホンダのものづくりには、M・M思想という考え方がある。マン・マキシマム、メカ・ミニマムをM・Mという。人が乗る空間を最大にし、機械を積む部分は最小にするという考え方で、小さくても車内空間は広いクルマをつくるのがホンダ流。藤野さんがエンジンを主翼の上につけたのもM・M思想が根底にある。胴体後部のスペースから機械を排除し、人が乗れるスペースに変えれば、小さなジェットでもゆったり人が乗れるのだ。しかもエンジンが胴体に付いていないから客室の騒音が軽減できる。

 経営会議に一人乗り込む

 藤野さんは新しいコンセプトの航空機をつくれば、事業化は可能だと考えた。1997年12月、当時37歳の藤野さんは経営会議に一人で乗り込み、プロジェクト継続を訴えた。「そこまで言うなら、やれ」とプロジェクトの継続が決まった。

 経営会議が一人の技術者の意見を聞き、難プロジェクトの継続を決め、技術者も一人になっても知恵をふり絞り、経営陣を説得する--。経営陣も社員も真剣勝負で意見を戦わせる風土がホンダにはあったのだろう。だが一方で、それぞれに厳しい覚悟が必要だった。藤野さんは「来週、会社を辞めるかも」と妻に日々漏らすほどの必死の思いを抱えていた。

 1997年12月の分岐点となった経営会議からすでに20年が過ぎ去り、やっとホンダジェットが日本の空で日の目を見る。

 2013年に米国航空宇宙学会(AIAA)の学会誌に藤野さんが書いたホンダジェット開発のケーススタディーの中で宗一郎との出会いに触れている。

 航空機プロジェクトに加わった20歳代の後半に研究所のトイレで、すでに引退し、アロハシャツ姿で研究所に来ていた宗一郎に出くわした。プロジェクトは極秘で宗一郎にも知らされていなかった。

〈私が宗一郎氏を見たとき、彼も私のことを見て、一瞬目が合った。私は「今、航空機プロジェクトで働いるのです!」と言いかけた。しかし、私はまだ若く、彼に話しかける勇気が出なかった。私がお辞儀をすると、彼も軽く会釈したが、一言も交わすことなくその場を離れた。数年後、宗一郎氏はこの世を去り、再び彼に会える機会は失われた。私がタフな挑戦に立ち向かっている時、いつもその時ことを思い出す〉

 6月6日の発表会で藤野さんにほぼ6年ぶりに会った。6年前は量産1号機の生産を開始し、ホンダジェットが飛び立つ直前だった。宗一郎の夢にようやく手が届きそうな時だった。

 発表会の後、藤野さんに「よかったですね」と声を掛けると、藤野さんは無言でほほ笑み、うなづいた。