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シン・リジィ伝説を継承したグランド・スラムのCD6枚組BOX発表。マーク・スタンウェイが語る【前編】

山崎智之音楽ライター
Mark & Phil / courtesy Mark Stanway

シン・リジィが1983年に解散した後、リーダーのフィル・ライノットが結成したグランド・スラムの音源を集めたCD6枚組アンソロジー『Slam Anthems』が海外でリリースされた。

レコード会社と契約することなく、約1年半と短い活動期間で解散した“幻”のバンド。オフィシャル・アルバムが発表されず、フィルが1986年1月4日に亡くなったこともあり、その存在は神格化すらされてきた。

本作の音源はバンドのキーボード奏者だったマーク・スタンウェイが所蔵していたスタジオ・デモやライヴ・テープをソースにしたもの。2002年からCD化され、ファンを驚喜させた音源だが、『Slam Anthems』はそれらの音源をデジタル・リマスター、よりクリアかつダイナミックな音質で堪能することが出来る。

本作に収録されているのは以下の内容だ:

CD-1:2022年リミックス

CD-2:1983年8月5日スウェーデン、エレブルー(グランド・スラム結成前、フィルのソロ・バンドによる演奏)

CD-3:1984年4月29日アイルランド、リフォード

CD-4:1984年11月7日ロンドン、BBCパリス・シアター

CD-5:1984年10月12日、イギリス、グレイト・ヤーマス

CD-6:1984年スタジオ・デモ

いずれもシン・リジィの音楽を新たな時代へと導いていこうとする意欲的なサウンドが刺激的で、一新されたバンドによる演奏もエキサイティングだ。デモとライヴということでアレンジは練り込まれていないものの、それゆえのラフなエッジも効果的である。

そんな『Slam Anthems』について、そしてグランド・スラム時代のフィル・ライノットについて、全2回のインタビューでマーク・スタンウェイに語ってもらおう。まずは前編を。

Grand Slam『Slam Anthems』(Cleopatra Records/現在発売中)
Grand Slam『Slam Anthems』(Cleopatra Records/現在発売中)

<フィルから音楽を奪うべきではないと思った>

●グランド・スラムの『Slam Anthems』の音源はどのような性質のものですか?

当時、私はいつもサウンド・エンジニアにライヴをカセットに録ってもらっていたんだ。後で聴き直して、自分のプレイの参考にするためにね。膨大な数のライヴ音源からCD化したのが“ズーム・クラブ”や“クレッシェンド”といったレーベルから発表した一連のアルバムだった。それがもう20年前のことで、現代ではテクノロジーが飛躍的に進歩している。それで音質と演奏の良いものを再発したのが『Slam Anthems』だ。最新のリマスタリングを経て、音質が格段にクリアになったよ。まるで昨日レコーディングしたように聞こえる音源もあるほどだ。

●フィル・ライノットとはどのように知り合ったのですか?

ジョン・サイクスに紹介されたんだ。私がいたマグナムがジョンのいたタイガース・オブ・パンタンというバンドと一緒にツアーを行ったことがあって、親しくなったんだよ。ツアーの後も連絡を取り合っていたし、ジョンがアメリカに呼ばれてオジー・オズボーンのバンドのオーディションを受けたときバックを務めたりもした。ランディ・ローズが亡くなって(1982年3月19日)、オジーは後任ギタリストを必要としていたんだよ。結局ジョンはオジーのバンドには入らなかったけど、それから少しして「シン・リジィに参加することになった」と言われたんだ。「凄い!」と我がことのように興奮したのを覚えているよ。...話を戻すと、初めてフィルと会ったのは“マンチェスター・アポロ”のバックステージだった。次に会ったとき、彼はスタジオで『ラスト・ライヴ』(1983)のミックスをしていた。その晩は夜遅くまで飲んで、次の日「スウェーデンでソロ・ツアーをやるんだけど、キーボードを弾いてくれない?」と頼まれたんだ。

●伝説の“スリー・マスケティアーズ”ですね。

うん、当時そうは名乗っていなかったけどね。単にフィルのソロ・バンドという扱いだった。実質的にはシン・リジィの後継バンドだったんだ。フィル、ジョン、ドラマーのブライアン・ダウニーがいたしね。スコット・ゴーハムはいなくて、ドイシュ・ネイグルがセカンド・ギタリストだった。ブライアンのようにシャッフルをプレイするドラマーは他にいないよ。素晴らしいプレイヤーだったし、「ヤツらは町へ」みたいなシン・リジィ・クラシックスをプレイするのは夢のようだった。「サラ」のように、シン・リジィがライヴでプレイしなかった曲も演奏したんだ。

●「サラ」をプレイしたのは誰のアイディアでしたか?

うーん、昔のことだし覚えていないけど、最初に提案したのは私だったかも知れない。好きな曲だったし、ライヴで聴きたかったんだ。スウェーデン・ツアーではフィルの体調も良くて、バンドの演奏もすごく良かった。それですぐ新曲を書こうということになったんだ。その頃はまだグランド・スラムというバンド名はなかったと思う。ソロ・ツアーの後、“レディング・フェスティバル”にシン・リジィとマグナムが出演したんだ。私たちが土曜(8月27日)、彼らが日曜(28日)と別の日だったけどね。

●このバンドは何故長続きしなかったのですか?

それから間もなく、ジョンがホワイトスネイクに引き抜かれたんだ。彼がそのことをフィルに告げた現場に、私も同席していたよ。キャリアの選択肢としては文句の付けようがないものだし、ギャラも高額だった。ただやはりフィルはすごく落ち込んで、新しいバンドの結成も頓挫しかけた。でも、この時点でフィルはドラッグの問題を抱えていたし、彼から音楽を奪うべきではないと思った。「このバンドを続けるべきだよ!」と説得したんだ。

●そうして始動したグランド・スラムの船出は順調でしたか?

実はもうひと波乱あったんだよ。ジョンに「ホワイトスネイクがキーボード奏者を探している」とオーディションに誘われたんだ。「ホワイトスネイクにはジョン・ロードがいるだろ?セカンド・キーボード奏者になる気はない」と断ったけど、その後すぐにロードはディープ・パープル再結成のために辞めていった。でもそれ以上に、フィルをがっかりさせたくなかったんだ。彼に背中を向けたくなかった。フィルはその頃、離婚のこともあって、芸能マスコミが連日彼の自宅まで押しかけてきた。それでよく私の家に来ていたよ。ロンドンから離れたミッドランズ地方で、客間に寝て、近所のスタジオでジャムをやったりした。その頃、彼とはすごく親しかったんだ。体調も良さそうだったし、楽しい時期だった。

Grand Slam 1983 / courtesy Mark Stanway
Grand Slam 1983 / courtesy Mark Stanway

<ジョン・サイクスが去った後、まずローレンス・アーチャーが頭に浮かんだ>

●ギタリストのローレンス・アーチャーはどのようにして加入したのですか?

1982年、私はマグナムの一員として“ジェット・レコーズ”と契約していた。そのときのA&R担当のロニー・ファウラーは“ポリドール”に移籍して、スタンピードというバンドを担当するようになった。そのバンドにいたのがローレンスだったんだ。当時彼は二十歳そこそこの若手ギタリストで、義父リューベン・アーチャーとバンドをやっていた。彼らのアルバム『ハリケーン・タウン』(1983)のレコーディングでキーボードが必要だったんで、私に声をかけてきたんだ。セッションをやった後、マグナムがアルバム『ジ・イレヴンス・アワー』(1983)に伴うツアーに出ることになった。ギターが2本必要な曲があったんで、私はトニー・クラーキンに良いギタリストがいると教えたんだ。ローレンスは素晴らしかったし、ジョン・サイクスが去った後、まず頭に浮かんだのが彼のことだったよ。

●ジョン・サイクスとローレンス・アーチャーのツイン・リード・ギターが実現する可能性はありましたか?

いや、それはないな。ローレンスがバンドに加わったのは、ジョンが抜けたからだった。もう1人のギタリストとして、ずっとドイシュ・ネイグルがいたよ。

●ブライアン・ダウニーはどのようにして新バンドを離脱したのですか?

私たちはフィル宅の近所にあるスタジオでリハーサルを数回行ったんだ。そんなときブライアンが「休みが欲しい」と言ってきた。シン・リジィで10年以上世界を回ってきたんだし、仕方がないことだった。フィルにとってブライアンは少年時代からの親友だったし、彼を失ったことはジョンのとき以上にショックだったと思う。でも既にバンドは動き出していたし、すぐに新しいドラマーを見つけなければならなかった。フィルのシン・リジィ結成前、スキッド・ロウで叩いていたロビー・ブレナンがやってくれることになった。彼はアイリッシュで、良いドラマーだったよ。そうしてグランド・スラムは前進していくことになったんだ。

Mark & Phil / courtesy Mark Stanway
Mark & Phil / courtesy Mark Stanway

<フィルは正にワン・アンド・オンリーだった>

●『Slam Anthems』を聴くと、グランド・スラムの楽曲は素晴らしいし、ライヴでフィルの声がかすれているときがあるのを除けば、演奏も優れていました。バンドがレコード契約を出来なかったのにはどんな事情があったのでしょうか?

結局フィルのドラッグ問題が足枷になったんだ。スウェーデンのツアーでは、彼は健康そうだった。その直前までアフリカに家族で旅行して、精神的にもハッピーなようだったよ。体重は増えたようだったけど、不健康な感じではなかったんだ。でもそれから徐々に体調を崩していった。彼は私の前では決してドラッグをやらなかったけど、隠れてやっていたんだろうね。私は手を出すことがなかったし、どれだけ魅力のあるものだったかは判らない。でもフィルを失ったことは家族、友人、彼のファンにとって大きすぎる損失だったよ。

●レコード会社と交渉の席に着くことはありましたか?

一度トニー・ヴィスコンティのオフィスに行ったんだ。シン・リジィの『ライヴ・アンド・デンジャラス』を手がけたプロデューサーだよ。彼がグランド・スラムのファースト・アルバムをプロデュースするという話もあったけど、どのレコード会社も興味を持たず、門前払いを食らった。

●曲作りはいつから始めたのですか?

スウェーデンのツアーが終わってからすぐ始めたよ。バンドは火が付いていたし、その勢いに乗って作業に入ったんだ。最初はアイディアを投げ合う感じで、どの部分がフィルでどの部分が私、どの部分がジョン・サイクスだったか特定することは出来ない。「クライム・レイト」はかなり初期に書いた曲だった。「シスターズ・オブ・マーシー」は私がピアノを弾いて、フィルが歌って書いた。当時はまだタイトルがなかったんだ。「ミリタリー・マン」はフィルと私で書いた曲だった。彼はグランド・スラム解散後にゲイリー・ムーアとレコーディングして、私の名前はクレジットされていなかったけどね(苦笑)。

●シン・リジィはロック史に冠たる名曲をいくつも生み出してきましたが、フィルと共作して往年のマジックを感じましたか?

フィルの輝きはまったく失われていなかったよ。どの曲も素晴らしかったし、特に歌詞についてはシン・リジィと異なった世界観に踏み込んだものだった。それらをベースを弾きながら歌うんだから、本当に凄かったよ。過去の曲もプレイして最高の気分だった。「ヤツらは町へ」は世界中のバンドがカヴァーしてきたけどフィルみたく歌える人は1人もいない。彼は正にワン・アンド・オンリーだったね。もし電話帳を読み上げたとしても我々の心を捉えただろう。

●フィルはどんな人物でしたか?

フィルは最高のユーモアのセンスを持っていた。世界的なロック・スターぶることなく、地に足の着いた人だったよ。私の家に来たときもスリッパに履き替えて、テレビを見ながらいろいろ話した。彼は家族を愛する父親だったし、愛すべき人間だった。それがステージに上がった瞬間無敵のロック・スターに変貌するんだ。彼はスラッと背が高くて、でかいアフロでさらに背が高く見えた。ロバート・プラント以上のオーラを放っていたよ。

●あなたはいつ、どのようにしてグランド・スラムを脱退したのですか?

結局グランド・スラムはレコード会社のバックアップを得ることが出来ず、にっちもさっちも行かなかったし、フィルの健康状態は悪くなる一方だった。それで1984年の終わり、マグナムの『オン・ア・ストーリーテラーズ・ナイト』(1985)のレコーディングに声がかかったんで、戻ることになった。私には妻と子供がいるし、生計を立てねばならない。フィルは残念がっていたけど、理解してくれたよ。

●グランド・スラムが正式に解散を決定したミーティングなどはありましたか?

私はマグナムに戻って、フィルはゲイリー・ムーアのアイルランド公演に参加した。それで終わりだった。それぞれが別の人生を進むことになったんだ。もしフィルが再びツアーに出ることになったら、ぜひ一緒にやりたかったね。でもそれは実現することがなかったんだ。

●1986年1月4日にフィルが亡くなったとき、彼はソロ・アルバムを作ろうとしていたといわれますが、どの程度進んでいたのですか?あなたは関わっていましたか?

しばらくマグナムに専念していたけど、フィルがジュニアというアーティストと共作する可能性があって、デモでプレイしたよ。「ママ・ユーズド・トゥ・セイ」という曲をヒットさせたシンガーで、ロックではなかったけど、フィルはさまざまな音楽にチャレンジしようとしていたんだ。...ちなみに私の妻はセッション・シンガーで、ジュニアのレコードでも歌っていた。モ・バーチといって、カルチャー・クラブやゴー・ウェストのバック・シンガーとして日本にも行っているよ。マグナムのアルバムやツアーにも参加したから、ファンの人は彼女の声を耳にしているよ。もう結婚して48年になる。キングダム・オブ・マッドネスでもバック・ヴォーカルを務めているんだ。

●最後にフィルと会ったのはいつですか?

1985年、マグナムのロンドン“マーキー・クラブ”でのライヴに飛び入りしてくれたこともあって、フィルと最後に会ったのは彼が亡くなる3ヶ月ぐらい前、ロンドンの“イージー・ハイア・スタジオ”でリハーサルをしたときだった。ジャムみたいな形式で、とりとめのないセッションだったよ。その後フィルに便箋5枚の手紙を書いたんだ。パーソナルな内容だから内容は明かさないけど、彼のことを愛していて、だからこそ健康のことを心配しているというものだった。それが最後になったんだ。悲しいけど、良い関係で別れられたのが救いだったかもね。

後編記事に続く

Mark Stanway自伝『Close To The Mark』(自主制作、現在発売中)
Mark Stanway自伝『Close To The Mark』(自主制作、現在発売中)

【マーク・スタンウェイ公式サイト】

https://www.markstanway.co.uk/

【キングダム・オブ・マッドネス公式サイト】

https://www.kingdomofmadness.co.uk

【マーク・スタンウェイYouTube公式チャンネル】

https://www.youtube.com/@markstanway1

【レコード会社サイト】

Cleopatra Records

https://cleorecs.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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