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【幕末こぼれ話】新選組は敵に殺されるよりも、味方に殺されたほうが何倍も多かった?

山村竜也歴史作家、時代考証家
暗殺剣(写真:アフロ)

 新選組の京都での5年間の活動中、敵に斬られて死亡した者は7人しかいなかった。基本的に剣術にたけた者の集まりであるから、斬り合いで死ぬ者があまり多くないのは理解できる。

 ただ、それならば隊の人的損害は7人だけで済んだことになるが、実際にはそうではない。実にその何倍もの人数が、敵ではなく味方によって死に至らしめられている実態があるのだ。

 新選組の苛酷な隊内実情を、あらためて確認してみよう。

鉄の掟・局中法度

 新選組が発足してから慶応3年(1867)末までの5年間で、敵に斬られて死亡した7人というのは次のとおりである。

 奥沢栄助    元治元年6月5日

 安藤早太郎   元治元年7月22日

 新田革左衛門  元治元年7月某日

 宮川信吉    慶応3年12月8日

 舟津釜太郎   慶応3年12月某日

 井上新左衛門  慶応3年12月18日

 馬丁・芳介   慶応3年12月18日

 ほかに死因が判明していない者もいるが、明らかに敵との戦闘で命を落としたのは右の7人となる。このうち奥沢、安藤、新田の3人は池田屋事件での受傷による死亡であり、同事件が新選組にとっての大一番であったことを改めて感じさせる。

 彼ら7人の死は痛ましい出来事ではあるが、常に敵との戦いのなかに身を置く新選組の業務を考えれば、やむをえないことともいえるだろう。

 ところで新選組には、隊士たちを統率するためにつくられた「局中法度」と呼ばれる隊規があった。「士道に背くこと」「局を脱すること」などを禁じた4か条で、違反した者は切腹という厳しい規則だった。

 新選組の京都での5年間に、この法度違反の罪で死刑となった隊士は、16人に及んでいる。

 野口健司   文久3年12月27日

 葛山武八郎  元治元年9月6日

 山南敬助   慶応元年2月23日

 大谷良輔   慶応元年3月3日

 施山多喜人  慶応元年6月21日

 石川三郎   慶応元年6月21日

 佐野牧太   慶応元年7月25日

 細井鹿之助  慶応元年7月頃

 川島勝司   慶応元年7月頃

 河合耆三郎  慶応2年2月12日

 柴田彦三郎  慶応2年6月23日

 酒井兵庫   慶応2年10月以降

 田内知    慶応3年1月10日

 田中寅三   慶応3年4月15日

 武田観柳斎  慶応3年6月22日

 浅野薫    慶応3年同月頃

 大幹部山南敬助が局長近藤勇との意見の相違から脱走し、途中の大津で捕らえられて切腹処分となった残念な出来事はよく知られている。一方、施山多喜人と石川三郎は、入隊早々に京都の商家の妻女と関係を持つトラブルを起こし、士道不覚悟な者として切腹させられた。

 また河合耆三郎は、勘定方をつとめていたが、会計処理にミスがあり、公金横領の疑いで切腹となった。河合の場合は実家が裕福であったから、損失の補填は可能な状況にあったが、土方歳三はそれを認めず、あくまでも士道に背いた者として切腹させたのである。

内部抗争による死者

 さてこう書き進めていくと、16人ならば法度違反による死者としては、それほど多くないのではと思われるかもしれないが、実はそうではない。

 このほかに、いわゆる内部抗争によって死亡した者が多数存在するのだ。その数18人。

 殿内義雄    文久3年3月25日

 家里次郎    文久3年4月24日

 佐伯又三郎   文久3年8月10日

 新見錦     文久3年9月某日

 芹沢鴨     文久3年9月16日

 平山五郎    文久3年9月16日

 御倉伊勢武   文久3年9月26日

 荒木田左馬之介 文久3年9月26日

 楠小十郎    文久3年9月26日

 佐野七五三之助 慶応3年6月14日

 茨木司     慶応3年6月14日

 富川十郎    慶応3年6月14日

 中村五郎    慶応3年6月14日

 伊東甲子太郎  慶応3年11月18日

 藤堂平助    慶応3年11月18日

 服部武雄    慶応3年11月18日

 毛内有之助   慶応3年11月18日

 小林桂之介   慶応3年12月16日

 彼らは、法度違反とされたわけではないから切腹処分にはならず、ほとんどが近藤派によって暗殺されている。特に芹沢鴨一派は、新選組草創期には大きな権力を持っていたが、芹沢の乱行によって自滅する形となり、粛清された。

 また伊東甲子太郎一派も、新選組の主導権を握ろうと画策したが敗れ、最後は油小路事件で藤堂平助らとともに殺害された。これらのことから、近藤、土方の意向に添わない者は排除されるという、新選組の実態が見て取れるのである。

 ともあれ、法度違反による死者が16人、内部抗争などによる死者が18人、合わせて34人が「味方」によって死に至らしめられた人数となる。これは敵に殺された7人の、実に5倍にあたる驚くべき数といっていい。

 このほかに死因不明の者も6人ほどいるので、比率は確定的ではないが、むしろ状況としては彼らも「味方」に殺された者である可能性のほうが高い。最終的な比率は5倍では済まないということになるだろう。

 それにしても敵を倒すために組織された集団で、結果的に敵に殺された5倍もの人数を味方が殺しているとは、改めて驚かされる。新選組の殺伐としたイメージは、実はこういうところから来ている部分が大きいと思えるのである。

歴史作家、時代考証家

1961年東京都生まれ。中央大学卒業。歴史作家、時代考証家。幕末維新史を中心に著書の執筆、時代劇の考証、講演活動などを積極的に展開する。著書に『幕末維新 解剖図鑑』(エクスナレッジ)、『世界一よくわかる幕末維新』『世界一よくわかる新選組』『世界一よくわかる坂本龍馬』(祥伝社)、『幕末武士の京都グルメ日記』(幻冬舎)など多数。時代考証および資料提供作品にNHK大河ドラマ「新選組!」「龍馬伝」「八重の桜」「西鄕どん」、NHK時代劇「新選組血風録」「小吉の女房」「雲霧仁左衛門6」、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」、映画「燃えよ剣」「HOKUSAI」、アニメ「活撃 刀剣乱舞」など多数がある。

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