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【幕末こぼれ話】新選組の沖田総司が池田屋事件で血を吐いたのは史実なのか?

山村竜也歴史作家、時代考証家
沖田総司を演じた俳優・辻本祐樹(筆者撮影)

 新選組の沖田総司が肺結核に感染し、若い命を散らせたことはよく知られている。映画「るろうに剣心 最終章The Beginning」(大友啓史監督)のなかでも、村上虹郎扮する沖田が、佐藤健の緋村剣心と池田屋で戦い、戦闘中に血を吐いて倒れた。

 「るろうに剣心」のみならず、沖田が登場する時代劇では、ほとんどの作品で沖田は池田屋で喀血し、戦闘不能になる描写がなされている。この池田屋での発病というのは史実に裏付けられたものなのか、それともイメージ優先で創られた場面なのか――。今回はそのあたりを調査してみよう。

説が分かれる発病時期

 沖田総司が池田屋事件の際に肺結核で倒れたことを、初めて証言したのは同じ新選組の永倉新八だった。維新後の大正2年(1913)に「小樽新聞」の記者に語った談話記事には、このようにある。

「そうこうするうちに、沖田は大奮闘の最中に持病の肺患が再発して打ち倒れたので、眉間に負傷した藤堂(平助)とともに表へ出してしまう」(小樽新聞「永倉新八」)

 永倉は沖田と同時に池田屋に突入した隊士であり、沖田の異変を間近で見ることのできる立場にあった。その永倉が証言しているのだから、再発かどうかは別にして、沖田が池田屋で肺結核を発病したのは確かなことと思われた。

 しかし、池田屋事件のあった元治元年(1864)6月に発病したとすると、死亡する慶応4年(1868)5月までには4年が経過しており、当時の結核患者の余命としてはやや長いようにも感じられるのである。たとえば長州藩の高杉晋作は、発病後1年で没している。

 それに加えて、新選組と交流の深かった武州多摩の小島鹿之助が残した「両雄士伝」(明治6年)には、次のような記述がある。

「(沖田は)丁卯二月罹疾」

 丁卯というのは、慶応3年(1867)のことだ。慶応3年2月に罹疾(病気にかかること)したとすれば、死亡まで1年余りということになり、元治元年説にくらべてかなり信憑性が増すように感じられる。こちらを信じるべきなのだろうか。

永倉新八直筆記録による結論

 永倉新八による元治元年説が弱いのは、「小樽新聞」の記事が永倉の生の声ではなく、記者による物語調の記事であることも理由になっている。史料として扱う場合、永倉の談話をもとにした物語調の記事というのは、信頼度の点で一段階劣ることは否めない。

 ところが平成10年(1998)になって、状況を一変する貴重な史料が発見された。永倉が明治初期に著し、所在が不明になっていた「浪士文久報国記事」だ。これは基本的に永倉が直筆でしたためた新選組在隊時の記録で、史料的価値は限りなく高い。

 その文中に、沖田が池田屋で発病し、戦線を離脱したことがはっきりと書かれていたのだ。

「沖田総司病気にて会所へ引き取る」

 永倉は、自分と一緒に突入した沖田が、池田屋で発病して戦闘不能になったことを、確かに目撃していたのである。

 同史料には、池田屋事件の翌月に起きた禁門の変にも、沖田は病中で参戦できなかったと記されている。当事者の永倉がそこまで明記している以上、沖田の発病が元治元年の池田屋事件の時であったことは、もはや確実というべきだろう。

 幕末史を彩る池田屋での沖田総司の喀血シーンは、史実に裏付けられた時代劇の名場面として、今後も描かれていくことを期待したい。

歴史作家、時代考証家

1961年東京都生まれ。中央大学卒業。歴史作家、時代考証家。幕末維新史を中心に著書の執筆、時代劇の考証、講演活動などを積極的に展開する。著書に『幕末維新 解剖図鑑』(エクスナレッジ)、『世界一よくわかる幕末維新』『世界一よくわかる新選組』『世界一よくわかる坂本龍馬』(祥伝社)、『幕末武士の京都グルメ日記』(幻冬舎)など多数。時代考証および資料提供作品にNHK大河ドラマ「新選組!」「龍馬伝」「八重の桜」「西鄕どん」、NHK時代劇「新選組血風録」「小吉の女房」「雲霧仁左衛門6」、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」、映画「燃えよ剣」「HOKUSAI」、アニメ「活撃 刀剣乱舞」など多数がある。

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