明智光秀の命日に、京都における光秀最期の地と複数の首塚を紹介。
本日(6/13)は、明智光秀の命日ということで、京都における光秀のお墓(首塚)を中心に紹介したい。
まずは亡くなった場所とされる伏見の小栗栖へ。日蓮宗の本経寺の境内にわずかに残された「明智藪」がその最期の地とされる。
山崎合戦の敗戦後、勝龍寺城を脱出して、居城である坂本城へ敗走中に、落ち武者狩りによって襲われたという説、この地にいた飯田一族に襲われたという説など様々だ。明智藪を守る本経寺には、光秀の供養塔も設置されている。
亡くなった光秀の首は、遺言によって家臣が知恩院に運ぼうとしたとも伝えられ、途中で夜が明けたことによって埋められたとされる場所が、三条白川南側にある現在の首塚だ。
路地の奥にひっそりと佇んでおり、その入口に店を構える和菓子店「餅寅」が長年に渡って管理してきた。名物「光秀饅頭」の存在は、大河ドラマ「麒麟がくる」放映をきっかけに世間に広く認知されるようになった。
余談だが、明智藪の北側へ約1キロ、小栗栖街道を進むと、山科に入った場所に胴塚も立っている。
光秀が統治した丹波国に目を向けると、亀岡市の郊外にある谷性寺(こくしょうじ)にも光秀の首塚が残っている。
人里離れた寺院にあるのが意外だが、光秀の時代には大きな寺院として光秀が保護していたという話も残る。現在は「桔梗の寺」として知られるようになり、初夏には「ききょうの里」として門前に広大な花畑を造成し、近年馬上に乗った光秀の銅像も設置された。
さらに北へ向かうと宮津市には盛林寺(せいりんじ)があり、こちらにも光秀の首塚がある。天正5(1577)年に上宮津城主であった小倉播磨守の菩提寺として創建され、その後は、丹後を統治することになった細川家から保護を受け、貞享2(1685)年に現在地に移転した。
境内にある首塚は、山崎の合戦で敗れた後に、娘である玉(ガラシャ)のいる宮津に届けられたものを弔ったと伝わる。
光秀は歴史上、取りたてられた主君を討ったことから謀反人として名を残すことになったが、信長も認めて畿内の支配を任せたまぎれもない大人物で、家臣を気遣い、領地国では善政を行い、一人の妻だけを愛し抜いたように、人間的にも優れた内面をもっていた。
そんな死を惜しまれた光秀だからこそ、京都だけでもこれだけの首塚が残っているのではないだろうか。