安倍晴明の命日に、京都でのゆかりの地を紹介
今日は安倍晴明の命日。寛弘2(1005)年、85歳の長寿を全うした。映画や小説で描かれる若く、華やかで、才能あふれる晴明のイメージ。もちろん実在の人物ではあるが、実像とはかけ離れている部分も多い。
まず、前半年ははっきりしないが、陰陽道に長けた賀茂一族、賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたと考えられ、そこから陰陽寮の役人として天文道を極め、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇に仕え、藤原道長の信任も得たという。文献にはっきり出てくるのは花山天皇の時代で、今風に言えば「遅咲き」の典型的人物といえる。
天皇や貴族にとって目に見えない、正体のわからない病気や災害は何よりも恐ろしく、これらから守ってくれる晴明の存在は、どれほどありがたいものであったか想像に難くない。
死後には一条天皇の勅命によって、早くも2年後に邸宅跡に晴明神社が創建され、神様として祀られるようになった。
神社の近くには伝説の一条戻橋があり、こちらには安倍晴明が自由に操ったとされる「式神」を隠したと伝わる。そのため現在は、一世代前の一条戻橋の欄干が、晴明神社に保存されており、横には式神の石像が置かれている。
余談だが、現在の一条戻橋の横には河津桜が植えられおり、洛中に真っ先に春の訪れを告げてくれる。
安倍晴明の墓は、意外にも嵐山にある。現在、管理しているのは晴明神社なので、公式的な墓といえよう。正確な場所は渡月橋の北東、長慶天皇陵の南側に隣接し、裏側には、角倉了以の邸宅の鎮守社であった角倉稲荷神社も祀られている。
安倍晴明の子孫である安倍家は、室町時代、応仁の乱の戦乱を避けて、福井県に避難しており、また陰陽道も朝廷の衰退とともに、重要視されなくなっていた。
しかし、戦乱が収まった江戸時代には徳川家によって、再び陰陽師を統括する役割を任ぜられ、全国の陰陽師を統括する権限を得た。名前は安倍から土御門へと改名しており、その土御門家は、西寺付近に広大な土地を与えられて邸宅を構え、ここで天文観測、暦の管理、改編などを行った。
現在、屋敷跡には円光寺という寺院があり、向かい側には菩提寺である梅林寺も現存し、どちらの寺院の境内にも、土御門家が使用した天球儀、渾天儀が置かれたという台石が残っている。
屋敷の鎮守社であった鎌達(けんたつ)稲荷神社は西寺の跡地に未だ鎮座し、土御門家の資料は大将軍八神社に良好な状態で保管されている。
晴明の実績や逸話は、こうした子孫の繁栄によってさらに大きく強調された可能性も高い。
以上、簡単に安倍晴明の人生に触れながら、子孫の土御門家を含む関連スポットを紹介した。ぜひ秋には京都でゆかりの地を巡ってみてほしい。